【インドネシアに生きる】余生はインドネシアと共に バティックを着た仕事師(4)

永眠の地はインドネシアと決めている。だから余生はインドネシアと共に。仕事のスタイルは再婚しても一向に変わらないが、好きな音楽に耳を傾け、句作に興じることで、心に余裕を持たせるきっかけができた。家の周辺の住民とは向こう三軒両隣のつき合い。顔見知りと道で出会い、日焼けした顔に白い歯を見せられると、「彼らのために何ができるか」と自問する。バティックを着て風呂敷を手にした柴田紹朔さん(85)は、きょうも夜明け前に家をあとにする。...
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【インドネシアに生きる】肝心なのは好きになること バティックを着た仕事師(3)

海外ビジネスで成功するにはどうすればいいか。こう問われると、企業アドバイザ ーの柴田紹朔さん(85)なら、こう答えるにちがいない。その国の人や文化や歴史 についてうんと勉強しなさい、そしてその国を好きになりなさい、と。年不相応を 地で行く柴田さん自身、大変な読書家であり、興味を持つと、のめり込むタイプ。 しかし過去には執着しない。インドネシア関連の数千冊に上る蔵書も、惜しげもな く処分した。...
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【インドネシアに生きる】向こう三軒両隣を実践 バティックを着た仕事師(2)

社用で欧米は経験済み。アジアではバングラデシュやスリランカなどには出向いた が、インドネシアははじめてだった。地図上でどこにあるかは知っていても、民族 や文化については皆目知らない。そんなインドネシアの大地に柴田紹朔さん(85) は1976年1月に最初に降り立つ。44歳のときだった。...
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【インドネシアに生きる】隠居世代で現役バリバリ バティックを着た仕事師(1)

年不相応を地でいく隠居世代の現役バリバリさんの話をしよう。写真は苦手。人相 が悪いからと本人は言うが、なかなかどうして。インドネシアの国民服であるバテ ィックに身を包み、紳士然とした顔立ちとやわらかな物腰で、丁寧語を崩さない。 ただ、その話にはひと癖もふた癖もある。「老人のたわ言です。...
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【インドネシアに生きる】還暦をバネに新たな旅立ち ロマン追うコンサルタント(4)

生まれも育ちも関東だが、四国経由で30年前、メーカーの経理担当としてインドネシアにやってきた。経歴からは堅物のイメージが強いが、それは一側面でしかない。この人には実際、数学と文学が同居していて、そのすき間に音楽が流れている。歌に生き、奇想天外を地で行った畏友との運命的な出会いから、38歳で人生のハンドルを大きく切る。...
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【インドネシアに生きる】黄金の日々に突然の悲報 ロマン追うコンサルタント(3)

必然とは偶然の積み重ねかもしれないが、招き猫に手招きされるかのように踏み出した人生の新境地。それはまさしく、吉田隆さん(59)のターニングポイントだった。背中を押してくれた関雅武さんとともに、1996年に始めた総勢4人のジャパン・アジア・コンサルタンツ(JAC)。小さいオフィスで電話が鳴るだけでも小躍りした創業期は、吉田さんにとっては人生のゴールデンタイムでもあった。...
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【インドネシアに生きる】招き猫が人生の畏友招く ロマン追うコンサルタント(2)

30歳のとき、管理部門の責任者としてYKKのインドネシア法人に送り込まれ、ジャカルタ暮らしは会社の寮から始まった。仕事上で飲まざるを得なかった苦汁は、「ブロックM大学の夜間部」と呼ぶ歓楽街に通い、本物のアルコールで薄めるしかなかった。東京本社に出張して怒鳴られての帰路、吉田隆さん(59)は成田空港で招き猫の置物を気晴らしで買う。ここから新しい人生が転がり出した。...
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【インドネシアに生きる】四国経由でジャカルタに ロマン追うコンサルタント(1)

大手メーカーで長年、経理をやってきた。だから数字や損得勘定にはすこぶる強い。しかし、この人の物事の判断基準は、おもしろくて楽しいかどうかだ。主体はあくまで自分にある。経営コンサルタントなんて、どう考えてもうまくいくわけがない。それでも、ぞっこんほれ込んだ年長の畏友と二人三脚で、21年前に新しいビジネスに乗り出した。...
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【インドネシアに生きる】ジャカルタで余生堪能 付かず離れず46年(3)

1971年の最初の赴任以来、インドネシアとのかかわりは46年にもなる。しかし、いくら長く住んだところで、インドネシア人にはなれず、心身ともに日本人であることに変わりはない。だからこそ、日本人として筋を通したい。仕事上では若い従業員に対し、しつけや規律を意味するディシプリンの重要性を口酸っぱく説く。ディシプリンを備えれば、会社もこの国もさらに発展するにちがいない。...
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【インドネシアに生きる】インドネシアは奥深い 付かず離れず46年(2)

1997年の7月にタイから始まったアジア通貨危機は、たちまちのうちにインドネシアのルピアを直撃するが、これが翌年5月に起きたジャカルタ暴動とそれに続くスハルト退陣への導火線となる。仕事上では自説を曲げず、筋を通してきた内原正司さん(75)だが、首都を炎上させた暴動とその後の事態の進展は、これまでのインドネシア経験が試されるまたとない機会となった。...
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【インドネシアに生きる】元商社マンは楽観主義者 付かず離れず46年(1)

入った大学で気まぐれに選択した語学と、たまたま入社した商社。その延長線上で出会った人々との縁から、長年インドネシアとともに歩んできた。1970年代はじめは商社マンとして国家プロジェクトにかかわり、後年になって出向したメーカーでは98年のジャカルタ暴動も経験する。その後の民主化のうねりで政治は安定してきたが、内原正司さん(75)は「もう後戻りすることはない。...
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【インドネシアに生きる】伝統と流行のはざまで バティックの現場から(3)

バティック職人のなり手が少なくなる一方で、バティック本来のろうけつ染めとは無縁のプリントものが市場で大手を振りつつある。賀集由美子さん(56)が主宰するチレボンの工房はこれまで、伝統的な手描きの技法一筋でやってきたが、流行という名の逆風にさらされながら、「バティックのこの先」を模索中だ。賀集さんと自作のバティックキャラクター、ぺん子ちゃんたちとは一心同体。...
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【インドネシアに生きる】チレボンで工房立ち上げ バティックの現場から(2)

1998年の5月にインドネシアの首都を炎上させたジャカルタ暴動。賀集由美子さん(56)はそのとき、たまたま帰国中だった。暴動はお茶の間のテレビで知ったのではない。テレビ局のニュースセンターに詰めていた。情報を発信する側にいるという奇妙な体験をしたあと、パートナーが待つジャワ島のチレボンに戻る。縁あってこの港町の片隅でバティック工房をオープンするが、はじめは試練の連続。...
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【インドネシアに生きる】職業はお絵描き兼雑用係 バティックの現場から(1)

二言目には、ゆるゆる、いい加減、超テキトーといったたぐいの言葉が出てくる。本人いわく「これまでずるずると生きてきた、典型的な流され系」。自分の意志で道を切り開いてきたといった、たいそうな実感はない。人との出会いを重ねた結果として道はつながり、チレボンというジャワ島北部の港町にたどりついた。そこで巡り合ったパートナーとともに小さなバティック工房を開き、...
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【インドネシアに生きる】理詰めの中に人情の味 中小企業を率いる論客会長(2)

ときにジョークを入れながら、物事を理詰めで話すのは、それだけの経験に裏打ちされているからだろう。会社ではパソコンに触ることはない。はじめは意外に思えても、その理由を聞けば、なるほどなあと深く納得する。そこには名誉博士号を授与された経営哲学以上の豊かな人間味があった。インドネシアに進出した日本の中小企業を率い、ジャカルタの渋滞解決に向けて百年の大計と日本の積極的関与を提唱する白石康信さん ...
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【インドネシアに生きる】末は博士か大臣かを実践 中小企業を率いる論客会長(1)

小柄だが、大きく見える。大言壮語を並べる人ではないが、話題が日本とインドネシアの関係や大企業と中小企業のちがいなどになると、次第に熱を帯び、関西弁が混じったお国言葉の伊予弁になる。三菱電機の駐在員としてインドネシアに来てから35年。技術者と経営者の二足のわらじをはいてきた。この間、酒と一緒に苦汁もいっぱい飲んできたにちがいないが、あらかたは笑い飛ばす。中小企業連合会(SMEJ)の会長、...
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【インドネシアに生きる】東ジャワ暮らしは運命的 元青年協力隊員の家族愛(2)

ネパールの山中から戻った青年海外協力隊員は、木材会社に就職する。16年勤めて転職した現在の会社でも、前職同様に主な勤務地はスラバヤを中心とするインドネシアの東ジャワ州だ。通算で20年になる現地暮らし。本人は「運命的なものを感じる」と言うが、異境での仕事と生活には多くの人々、とりわけ家族の支えがあった。新工場を立ち上げて10年。全力投球でやってきたが、ひと区切りついたところで、...
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【インドネシアに生きる】半生を東ジャワの木材業に 元青年協力隊員の家族愛(1)

若い頃にネパール山中で一生分を歩いたという薩摩隼人。電気のない村々を巡回する青年海外協力隊での2年半は、試練の連続であったにちがいないが、さらりと「楽しかったですよ」のひと言。スラバヤを州都とする東ジャワ州で、半生を木材加工業にささげてきた。還暦を前にしてその先を思案するが、胸中にはつねに家族がいる。ハウテック・インドネシアの社長と技術者という2つの顔を持つ徳丸憲一さん(56)は、...
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【インドネシアに生きる】永眠の地はインドネシア 松山からジャカルタへ(3)

身長184センチで、柔道7段の巨漢。どこにいてもたっぷりな存在感がある。人はふつう、顔で覚えたり覚えられたりするが、この人は大きな体が名刺代わりだ。人ごみの中でも、ひと目ですぐわかる。仕事では長年、労務畑を歩いてきたためか、人を見るまなざしは鋭いが、そこに人情味が漂うのは器の大きさのせいだろう。ジャカルタ在住40年の東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)には、...
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【インドネシアに生きる】柔道指導で現地に深入り 松山からジャカルタへ(2)

ジャカルタの工場勤務で異文化体験をしたあと、古巣の東レ愛媛工場に戻り、ひと仕事終えてから1980年に再びインドネシアに旅立つ。それ以降、所用で一時帰国することはあっても、仕事と生活の場は基本的にジャカルタだ。自分でそう決めたわけではないが、インドネシアでの柔道指導などを通して人の輪が広がるうちに、自然とこの南国の地に深入りしてしまった。東レ・...
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【インドネシアに生きる】邦人社会の重鎮は柔道7段 松山からジャカルタへ(1)

すべては柔道から始まった。柔道がなければインドネシアも無論ない。人の輪は四国の松山仕込みの柔道を通して広がり、社会に出てからは、労務畑の仕事に柔道が生きた。足かけ40年になるインドネシア暮らしの中で、組み手や足技を教えた若者は数知れず。これまでさまざまな役職を引き受けてきたが、その多くは柔道が取り持つ縁。東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)は、...
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【インドネシアに生きる】インドネシアで日本の心に 元商社マンは人情家(3)

インドネシアにかかわって34年。合弁事業などで難題に直面するたび、辛酸をなめながらも相手への配慮を忘れず、もつれた糸は思いやりの心でほぐしてきた。財閥企業シナールマスの専務取締役、小林一則さん(73)はそうした中で、インドネシアで日本の心を見つけたという。5月に最愛の人と永別したが、悲しみはおくびにも出さず、9月初めに開かれたジャカルタ日本祭りではいつも笑顔...
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【インドネシアに生きる】52歳でシナールマスに転職 元商社マンは人情家(2)

インドネシアは1945年の独立後も長年、石油輸出に依存してきたが、70年代後半になって産業構造の転換が図られ、繊維をつくってそれを輸出するようになる。日本の繊維メーカーもこの動きに合わせてこぞって進出するが、ここに商社の出番があり、丸紅もインドネシアでの綿花ビジネスに参入する。米国とメキシコでこの方面での経験を持つ小林一則さん(73)は、1982年にジャカルタ支店...
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【インドネシアに生きる】神戸で見た西部劇が原点 元商社マンは人情家(1)

見てくれはスマートの一語。クールで理知的な感じがするが、この人はどっこい、限りなく情の人だ。商社マンとして30年。インドネシアの大手財閥企業に移ってから20年余り。常に結果が問われるビジネス街道を歩んできたが、この人には効率や勝敗よりも、義理や人情に重きを置く気風がある。それは昔かたぎな日本人の矜持(きょうじ)とも言えようか。本人の回想談によると、...
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