【インドネシアに生きる】神戸で見た西部劇が原点 元商社マンは人情家(1)

見てくれはスマートの一語。クールで理知的な感じがするが、この人はどっこい、限りなく情の人だ。商社マンとして30年。インドネシアの大手財閥企業に移ってから20年余り。常に結果が問われるビジネス街道を歩んできたが、この人には効率や勝敗よりも、義理や人情に重きを置く気風がある。それは昔かたぎな日本人の矜持(きょうじ)とも言えようか。本人の回想談によると、その原点は少年時代に神戸の映画館で目をギラギラさせながら見た西部劇にある。それが後年のテキサスやメキシコ体験につながり、インドネシアで大きく開花する。財閥大手のシナールマスの専務取締役、小林一則さん(73)の人生行路にはテンガロンハットをかぶった一人のカウボーイがいる。(大住昭)

開口一番、西部劇の話になる。神戸三宮の映画館にはよく通った。さすらいのカウボーイや町の保安官にあこがれ、アラン・ラッドやスティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソンなどは英雄だった。

■ シェーンにしびれる


一番好きな作品は1953年作の「シェーン」。アラン・ラッドが演じる流れ者のシェーンはある農家の納屋に泊めてもらい、その家の少年ジョーイと仲良しになる。シェーンは一宿一飯の恩義から町のワルと対決するが、酒場で撃ち合いになる直前のシーンがある。小林さんはシェーンとワルが交互に口にする英語のセリフを丸暗記しており、特別に披露してくれた。あたかも決闘のその場に居合わせているかのような、臨場感たっぷりの口調で。

筆者は小林さんより7歳年下だが、無類の映画好きだったせいか、この手の話にはついていける。スクリーンいっぱいにワイオミングの山々と荒野が広がる西部劇の代表作「シェーン」の中では、馬にまたがって一人去るシェーンの後ろ姿に向かってジョーイの叫ぶ「シェーン、カムバック!」の声がこだまするラストシーンはとりわけ印象的だ。

「カウボーイたちのセリフやアクションのかっこよさ。それに正義感。いやあ、アメリカってええなあ、と子供心に思いましたね」

そう語る小林さんは後年、商社マンとして西部劇が生まれた大地に降り立ち、広大な綿花畑で汗を流すが、この経験がインドネシアで生かされる。人の縁から財閥企業に転職し、日本とインドネシアの経済協力を進める一方で、両国の文化交流の旗振り役を務めるようになった。2012年に就任したジャカルタ日本祭りの実行委員長もその一環だ。

「振り返ると、どれもこれも、みんな、つながっているような気がします」

シナールマスのオフィスで部下に祝われての誕生日会(小林さん提供)

■ 芦屋のシティーボーイ


昭和17年(1942年)、兵庫県の芦屋市生まれ。

両親から聞いた話によると、前年の12月8日、夫婦で映画を観ていると、スクリーンの映像が突然消えた。館内放送で「大日本帝国は本日、米英に対して宣戦を布告した」と告げられ、映画はそれで打ち切り。仕方なく腰を上げたという。

物心がついたころ、自分は太平洋戦争の真っただ中で生まれたことを知る。2人兄弟の上で、父親はのちに赤紙を受け取り、中国大陸に出征。日本の敗戦後に戻ってきた。

子供のころの食事は、ごはんとおかず一皿。ごはんより先にハシがいくおかずはすぐになくなってしまう。福井の自転車屋の娘だった母親は、何も言わずに食べかけの自分のおかずをくれた。

「いつも腹をすかしていました。母ちゃん、自分で食べなよと言う前にハシを伸ばして、急いで口に入れてましたよ」

芦屋は北に六甲山、南には大阪湾が広がる。家は芦屋川が海にそそぐところにあり、子供のころは友だちと連れだって川でよく遊んだ。ギンヤンマやクマゼミを追いかけるのに夢中になるが、自然に恵まれた芦屋のシティーボーイは、捕まえてはすぐ逃がす。「かわいそうだから」というのがその理由だった。

復員した父親は雑多な商売に手を出したが、そのうち一時的に小さな銀行の社長になる。家族で神戸のレストランに出かけ、ハンバーグや照り焼きチキンを口にしたときのうれしさやその味はいまでも忘れられない。

小中高校はいずれも芦屋の地元校。兵庫県立の芦屋高校での成績は学年で3番目だった。上の2人の志望校は京大と阪大。担任の先生から「小林は神大を受けろ」と言われた。それで神戸大学の経済学部を受験して合格する。当時は将来何になるかなど、まったく考えていなかった。中学から始めたテニスに熱を上げていた。

■ 海外にあこがれ丸紅入社


神戸は昔から世界につながる港町。テニス仲間に英国人の駐在員がいた。イングリッシュジェントルマンで礼儀正しい。すぐ仲良くなれた。また人の縁で出会った米国人の宣教師は、心にしみ通るほどきれいな英語を話した。その宣教師に感化されて聖書を英文で読んだり、ジェームス・ディーン主演で映画化された「理由なき反抗」の原書に夢中になった。

当時は日本が高度成長する少し前。スーパーマーケットなどは数えるほどしかなかった貧しい時代に、目が覚めるようなデザインの舶来品が店頭に並び始めた。それを見ながら「ええなあ、海外で仕事ができたらなあ」と思うようになった。

神大テニス部で面倒を見てくれた先輩の中で3人が丸紅に勤めていた。4年生になった小林さんが就職先のことを考えていると、先輩の一人はこう助言した。「小林君が商社に入りたいんだったら、丸紅以外はアカンよ」。

先輩の助言に従い、1965年に丸紅に入社する。ほどなくして「小林一則、綿花部配属を命ずる」との辞令。輸出中心の機械部をひそかに希望していたが、綿花部も会社の花形部門だった。配送やロジスティックなど裏方の仕事に従事した。

入社2年目の24歳のとき、芦屋高校の同級生でテニス仲間だった女性と結婚する。芦屋の実家近くに新居を構え、そこから大阪・本町にあった本社ビルに通った。男の子2人を授かった。

芦屋高校の同級生だった奥さんの洋子さんと(小林さん提供)

■ ダラスからメキシコへ


29歳になって海外勤務を命じられる。赴任先は米テキサス州のダラスだった。

「しめた、西部劇の本場に行ける。そう思うと、舞い上がるほどうれしかったですね」

ダラスはケネディ大統領が1963年に暗殺された街でもある。奥さんは4歳と2歳の子供を抱えて不安だったのではないか。


ジャカルタのゴルフ場でアセアン会の面々と。小林さんは後列中央でテンガロンハットをかぶっている(小林さん提供)

「うちの家内は洋子っていうんですけど、洋子ちゃんは海外が大好きなんです。自分から行きたーいと言ってました」

赴任に先立って下調べをすると、ダラスの犯罪発生率は全米9位で、ニューヨークやロサンゼルスなどに比べるとそう高くない。地元の人々は「サウザン・ホスピタリティ」という南部人特有の親切心を持っている。スーパーマーケットは広くて清潔。「ここなら家族を連れてきても大丈夫」と確信した。

着任すると、すぐにメキシコの綿花産地のオブレゴンに飛ぶよう指示される。家族をダラスに残して単身赴任した。

カリフォルニア湾に近いオブレゴンの夏場は40度にもなる。オフィスにはテンガロンハットにジーンズの格好で通った。町からグアイマスの港まで、見渡す限りの綿花畑が延々と続く。そのハイウエーを車で一人ぶっ飛ばした。

信頼できる農家に大金を預け、それで綿花の種を植えてもらう。採れた綿花は日本や他の国に輸出し、その代金から初期投資を回収する。小林さんの仕事のひとつは、農家の主人が預けた大金をギャンブルなどに使っていないかチェックすることだった。オブレゴン勤務は1年間だけだったが、メキシコ人と話しているうちにスペイン語は自然と身についた。

「まだ若かったんでしょうねえ、あの頃は怖いものなしでした」

収穫期になると、大地が一面、白い綿で覆われる。灼熱(しゃくねつ)の雪世界に身を置く小林さんは、このコットン・フィールドでの経験が将来、インドネシア行きにつながることになろうとは夢にも思っていなかった。(続く)