【インドネシアに生きる】52歳でシナールマスに転職 元商社マンは人情家(2)

インドネシアは1945年の独立後も長年、石油輸出に依存してきたが、70年代後半になって産業構造の転換が図られ、繊維をつくってそれを輸出するようになる。日本の繊維メーカーもこの動きに合わせてこぞって進出するが、ここに商社の出番があり、丸紅もインドネシアでの綿花ビジネスに参入する。米国とメキシコでこの方面での経験を持つ小林一則さん(73)は、1982年にジャカルタ支店への赴任辞令を受け、通算で10年勤務。その間の人の縁から地場の財閥企業シナールマスに転職する。インドネシアが持つ成長へのダイナミズム。その渦中に自分の身を置こうとする52歳の決断だった。(大住昭)

メキシコの綿花産地から米テキサス州ダラスに戻って5年間勤めたのちに帰任した小林さんは、東京の国際業務部米州・大洋州室勤務となる。同室は米国やカナダの戦略を練るスタッフで構成され、仕事自体おもしろく、やりがいもあったが、その頃、インドネシアでは一大繊維ブームがにわかに巻き起こった。

インドネシアは熱帯国だが、綿花は生産できない。繊維製品を輸出するためには米国などから大量に綿花を買いつける必要がある。テキサス帰りの小林さんは国際業務部から綿花部に戻されると、上司からこう言われた。「2~3年、インドネシアへ行ってこいや」。

■ 通勤に渋滞なし


1982年3月3日、夕暮れ時のクマヨラン空港に着く。同空港は、スカルノハッタ空港が3年後に開港するまで使われていた。迎えの車ではじめて踏み入れたジャカルタの街。電力不足で暗かった。「陰気なところやなあ」と思った。

39歳の単身赴任者は、ジャカルタ南部のポンドックインダーにあった会社の社宅に落ち着く。そこから市街地のオフィスまで通うが、当時の路上はガラガラ。渋滞に悩まされるようなことは一切なかった。

流しのタクシーにはバックミラーなどほとんどなく、なかには座席の底が割れて走行中の地面が丸見えのものまであった。スハルト政権が盤石だったため、治安はしっかりしており、街全体がのんびりしていた。

「いまはタクシーに乗るときなんか、ちょっと気をつけてなんて言われますけど、当時は何の心配もなかったですね」

数年して仕事に慣れてくると、上司から「食料部門もやってほしい」と頼まれた。小林さんは入社以来、綿花一筋。大豆や小麦、コーヒー豆などを扱う食料部は経験がない。理由を聞くと、上司は「繊維も食料も基本は農業だろ。土から採れるものなんだから、やってくれ」と言った。

食料部には若手の優秀な部下がいた。話を聞くと、丸紅は食料分野で華人財閥のアストラやサリムグループとは業務関係があったが、小林さんとしてはこの方面で新しい会社とも手を組みたかった。

■ シナールマスとの出会い


その部下によれば、丸紅とはこれまで業務関係はないが、有力企業にシナールマスがあるという。さっそく調べると、同社の創業者は中国の福建省泉州出身の華人でインドネシア名はエカ・チプタ・ウィジャヤ。7歳でスラウェシ島のマカッサルに渡り、地元の小学校を出たあと、徒手空拳で砂糖やビスケット販売に乗り出す。1970年にシナールマスを設立。一代で食用油や製紙のほか、金融、保険、不動産などの事業も手がける一大財閥を築き上げた。

今年93歳になるグループ総帥には15人の子供がいると言われるが、主要部門は現在、長男のトゥグ・ウィジャヤと14歳年下の弟のフランキー・ウィジャヤが采配を振るっている。

30年以上も前、そのシナールマスにアポイントを取ってくれるように部下に頼むと、しばらくして「小林さん、取れましたよ」。「誰と?」と聞くと、「フランキー・ウィジャヤさんです」と言われた。

話にユーモアを欠かさず、ときに英語のフレーズが入る。シナールマスの会議室で(NNA撮影)

初顔合わせは、小林さん44歳、フランキーさん27歳のとき。青山学院大学を出たフランキーさんは色白で痩身、結婚したばかりだった。

「丸紅という会社の名前は知っているけど、何ができる会社ですか」

フランキーさんにこう聞かれた小林さんは「弊社は総合商社だから、なんでもできますよ」と答えた。

話をしながら「この人は将来、グループのリーダーになるにちがいない」と直感する。フランキーさんは当時、シナールマスグループの中でパーム油の大農園の経営を任されていた。

パーム油はアブラヤシの果実から採れる植物油だが、食用オイルのほかにマーガリンや化粧品の原料になる。近年はインドネシアでもバイオディーゼル燃料としての利用が大きく進展している。

シナールマスと丸紅は、フランキーさんと小林さんを軸にして業務関係を強化する。1989年にはジャカルタの主要道路のタムリン通りに、両社と大成建設や当時の富士銀行などとの合弁で39階建てのビルを建設する。シナールマスグループの現在の本社はこのビルに置かれ、丸紅もテナントとして11階に入居している。

小林さんが82年にジャカルタに赴任した当時、日本人社員は30~40人だったが、88年末に帰任するときには60人ほどに増える。丸紅の海外支店で売り上げだけを見ると、ジャカルタはニューヨークに肩を並べるほどになった。

東京に戻って国際業務部アジア太平洋室の室長になるが、ほどなくして再度ジャカルタ支店に呼び戻される。当時の支店長には地場の大企業との提携を強化したいとの考えがあり、小林さんが持つシナールマスとの人脈を活用したい意向だった。

丸紅関係者との食事会の席で、フランキーさんと(小林さん提供)

■ 冗談が転職のきっかけに


90年代に入ると、日本の商社が中心となって各地で工業団地が造成されるようになり、インドネシアの産業は繊維から電機や自動車へと裾野が拡大する。

1996年、伊藤忠との調印式で。握手する左側の人物がシナールマス創業者のエカ・チプタ・ウィジャヤさん。その左が長男のトゥグさん、握手の中央がフランキーさん。小林さんは右から2人目(小林さん提供)

ジャカルタに舞い戻った小林さんはそうした中で、シナールマスのフランキーさんと足並みをそろえてフル回転するが、93年になって再び帰任辞令を受ける。フランキーさんはその頃、伊藤忠商事との合弁で92年に造成したカラワン工業団地の案件で超多忙だった。小林さんが「フランキーさん、忙しそうですね。アシスタントがいるんじゃないですか」と冗談半分で言うと、「じゃあ、あなたがうちに来ますか」と逆に問われた。

その言葉を耳にしたとき、心は大きく揺れた。「はい、そうします」と言いたいのが本音。しかし、丸紅には長年お世話になった。フランキーさんの誘いにおいそれとは乗れない。「帰国して日本で人脈をつくってきます。2年、待っていてください」と言い残し、丸紅の日本の子会社に役員として出向した。


2年後にフランキーさんに連絡する。

「前にわたしに用意してくれると言っていた席、まだありますか」

「ありますよ。いつでも来てください」

小林さん、この返事に胸が熱くなる。涙が出るほどうれしかった。進むべき道はこれで決まった、と思った。

95年にシナールマスに転職する。52歳だった。入社に際して雇用契約など、文書による取り決めは一切なかった。あるのは2代目オーナーのフランキーさんと小林さんの信頼のみ。文書にすれば他人行儀になってしまう。

「まるで家族の一員のような扱われ方で、うれしかったですね。中国系のボスは、はじめは疑い深い目をしますけど、いったん信用されるとあとはすべてOKとなりがちです」

シナールマスに移って以降、丸紅との業務関係はそれまで以上に進展する。小林さんがかかわった業務の中で、シナールマスと日本企業との合弁事業はこれまでに23件を数え、現在3件が進行中だ。

「合弁事業に従事した経験で言えば、最初から最後まですべて順風満帆といったものは一つもありません。どこかで必ず、両者の利害に反するような難題が浮上します。そうした場合、自分の意見は抑えて相手の話をじっくり聞く。相手を少し優先させてあげる。これが自分流のビジネス哲学になりましたね」

長年ビジネスの最前線で戦ってきた人が、論理よりも相手に対する思いやりの大切さを語る。その言葉の端々に人情家としての心根がにじんでいた。(続く)