インドネシアに生きる】インドネシアで日本の心に 元商社マンは人情家(3)

インドネシアにかかわって34年。合弁事業などで難題に直面するたび、辛酸をなめながらも相手への配慮を忘れず、もつれた糸は思いやりの心でほぐしてきた。財閥企業シナールマスの専務取締役、小林一則さん(73)はそうした中で、インドネシアで日本の心を見つけたという。5月に最愛の人と永別したが、悲しみはおくびにも出さず、9月初めに開かれたジャカルタ日本祭りではいつも笑顔で元気のいい実行委員長役をまっとうする。その姿を見ながら、世のため人のためというフレーズを地で行く人のように思えた。(大住昭)

シナールマスのグループ本部があるジャカルタのビルを取材で最初に訪ねたのは8月下旬。通された会議室で待っていると、小林さんはニコニコ顔で「お待たせしてすみませーん」と入ってこられた。

小林さんを取り上げた新聞や雑誌の中の本人写真は、端正な顔立ちだが、なんだかとっつきにくそうな硬い表情。財閥企業の専務取締役というのはこういう顔をしているのかと思ったが、実物は天と地ほどにちがう。言葉づかいにも快活さと腰の低さが表れていた。

「きょうはものすごく機嫌がいいんです。きのうまで孫のゆみちゃんが1週間ほどこっちに来てたんです。一緒にあっちこっち行きました」

小林さんには男2人の子供と4人の孫がいるが、彼女は長男の長女で、孫の中では最年長。大阪大学法学部の2年生で、国連と大企業の社会的責任を研究しているという。

長男は日本航空のパイロットで、羽田空港がベースになってからは西宮に家族を残して海外に飛び回っている。次男は伊藤忠商事に勤めていたが、シナールマスの2代目オーナー、フランキー・ウィジャヤさんに目をつけられ、スカウトされる形でシナールマスに移ってきた。次男家族はジャカルタ在住だ。

■ 過去をたどる機会に


のっけから西部劇の話になり、「わたしの人生は子供の頃に見た西部劇から始まったような気がします」と話す。荒野をさすらう正義感の強いカウボーイにあこがれ、大きくなれば海外で働くことを希望。丸紅に就職して綿花部に配属され、夢がかなって西部劇の舞台でもある米テキサス州やメキシコの駐在員となる。

インドネシアは綿花ビジネスの延長線上にあった。仕事で扱う綿花は、大豆や小麦などと同じく大地の恵みであるところから農業に行きあたり、そこから人の縁で52歳のときにシナールマスに移って現在に至る。

「自分のことについてインタビューを受けるというので、これまで歩んできた道を振り返ってみました。何かの参考になるかと思って手書きし、自分なりにまとめてみたんですが、こういうことは普段しないので、いい機会になりましたねえ。コピーしましたので、よろしかったら差し上げます」

18ページほどのコピーは走り書きだが、小林さんの人生行路や転機の際の心情などがつづられている。ありがたく受け取った。

ページ数が多いのは、30年間勤めた丸紅からシナールマスに移るときのことと、その後のビジネス、とりわけ日本企業との合弁事業のことだ。

■ 自分の理想像を求めて


小林さんには転職時、「丸紅のために働くのは、丸紅の中にいてもできるし、外に出てもできるのではないか」といった思いがあった。これまではこちら(丸紅)側にいてシナールマスと協力してきたが、これからはあちら(シナールマス)側にいて日本企業との合弁事業を進めることになる。そのほうが双方の絆をより強化して、パイプをより太くできるのではないかという思いだ。

1995年にシナールマスに移って以降、インドネシアを取り巻く政治経済の状況は大きく流動化する。97年にアジア通貨危機、98年にはジャカルタ暴動と32年間続いたスハルト体制の崩壊、そしてその後の民主化のうねり。

小林さんによると、アカデミズムやスポーツ、またビジネスの世界でも、あるべき姿に到達しようと努力するところに人間の価値がある。理想像を追い求める過程で、その人にとっては宝のような大切なものが見つかるかもしれない。

東京に戻ってインドネシアとのビジネスパイプを太くするよりも、インドネシアが持つダイナミズムを肌で感じられるジャカルタにいるほうが仕事はしやすく、自分が理想とする姿も追求しやすい。目先の利益を追うことよりも、未来に向かってもっと大きな仕事ができるように思えた。

小林さんはおそらく、丸紅で定年を迎えるよりも、シナールマスに移ることによってサムシング・デファレントな人生選択をしたのだろう。何かちがう方向にこそ自分の進むべき道はあると信じて。

阪大に進んだ孫娘のゆみちゃん(当時中学生)と小林さん夫婦(小林さん提供)

■ 奥さんは高校の同級生


奥さんの洋子さんは、芦屋高校の同級生だった。「ぼくがA組で、洋子ちゃんがB組。文化祭の委員に選ばれて知り合いました。前向きで明るい性格に魅かれましたね。2人の共通項はテニスです。丸紅に入って2年後の24歳のときに結婚しました」。

同年齢だから何かと張り合うが、体育会系同士なので理屈っぽくなかった。多少もめても「めんどくさいなあもう、テニス行こっ!」のひと声で戦火は消えた。

出かけるのは芦屋国際ローンテニスクラブ。昭和30年(1955年)設立の名門クラブで、小林さん夫婦は男女ダブルスで優勝したこともある。このクラブには小林さんの両親が入り、続いて小林さん夫婦、長男夫婦、そして阪大法学部で学ぶ孫娘と、親子4世代が加入している。

米テキサス州ダラスには家族同伴だったが、ジャカルタは単身赴任。2人の男の子に手がかからなくなると、奥さんは芦屋とジャカルタを往来するようになる。

小林さんがシナールマスへの転職希望を口にしたときは、ハトが豆鉄砲を食らったときのようにポカーンとしていた。その顔には「これまで丸紅でずっとやってきたのに、なんでヨソの会社に移らんとあかんの?」と書かれていた。

小林さんは「日本で定年を迎えるよりもインドネシアにいて、この国が持つダイナミズムの中に身を置き続けたい」と説明。常夏のジャカルタは寒くないし、いつだってテニスも水泳もゴルフもできるなどと話しているうち、もともとネアカの奥さんは「いいんじゃない」と同意する表情になった。

奥さんはがん家系。大阪・阿波座の日生病院での検査で、C型肝炎にかかっていることがわかったのは60代半ば。70歳近くになって肝硬変と診断され、そのうち肝臓がんが見つかる。がんは肺にも転移していた。

奥さんは2015年5月でジャカルタ住まいを切り上げて芦屋に戻り、抗がん剤治療を受ける。見舞いに帰る小林さんの目にも、衰弱は一目瞭然だった。

■ ラストメッセージは「乾杯!」


今年の4月下旬、小林さんは日本での仕事も兼ねて見舞ったが、酸素マスク姿の病人は苦しそうだった。「ジャカルタに帰るからね」と言って病室を出るとき、奥さんは病床で泣いていた。

4月30日は結婚記念日。ジャカルタの家のベランダに奥さんが植えた花が咲いている。写真を撮ってメールで送ると、その日の深夜にベッドでつづった返信が届いた。

「ありがとう 結婚記念日 ありがとう いろいろありがとう

幸せです これからもよろしくお願いします

乾杯!」

この返信に目を通した小林さんは翌朝、奥さんに電話するが、苦しそうで声にならない。代わって受話器を取った長男から母親の容態の急変を知らされる。5月2日夕、スカルノ・ハッタ空港に駆けつけて関空行きの便に乗るが、最愛の人の最期を看取ることはできなかった。

「あの日から4カ月ほどたちました。正直に話しますと、いまになってようやく前を向けるようになりましたけど、それまではずっと後ろ向き。昔の思い出にひたっていましたね。一緒にいてやれば、いろいろ話すことができたのになんて、そんなことばっかり考えていました」

心の中にできた寂しさの空洞をどう埋めるか。ジャカルタ日本祭りの準備に追われながら、そんな心中を尊敬する人に打ち明けると、その人は「あなた、よくやったわねという奥さんの声が聞こえませんか」と言われた。その言葉に胸が熱くなった。

小林さん夫婦を囲んで右が長男、左が次男(小林さん提供)

高校の同級生だった奥さんは、ある意味でライバルだった。論敵に逝ってしまわれたあと、難題にぶつかったときなどは壁に向かって無言で語りかける。「こうしようと思うけど、どうな」。すると奥さんから賛否や「ちょっと反対」といった無言の声が返ってくる。その声を心で受け止めながら、「洋子ちゃんが生きていた頃と同じことをしているなあ」と思ったりする。

■ 世のため人のために


やるべき仕事はいっぱいある。だから毎日出社する。話す言葉は日本語と英語とインドネシア語が3分の1ずつ。日本企業との連絡や打ち合わせは日本語。社内や地場の取引先と話すときはインドネシア語のほうが喜ばれる。大手企業のトップは英語で話すので、それには英語で対応する。

小林さんによると、謙譲の美徳は各種の合弁事業を進める上で成功の鍵になるという。

「わたしたちは同じアジア人です。オリエンタルパートナーであって、欧米企業を相手にしているわけではない。インドネシア人は遠慮がちです。理路整然と自分の意見を出すわけではない。相手を傷つけてはいけないといった気持ちがあります。だから声にはならない声に耳を傾ける。つまり相手の気持ちをくんであげる。これが大事です。いろんな合弁事業を進める中で、こうしたことを学んで教訓としてきました」

相手の言い分を聞き、自分を一歩引いて考える。お先にどうぞと、相手を優先させる気持ちの大切さは、日本にいれば、また日本人であれば当たり前かもしれず、気づきにくい。しかし、思いやりを下地にしたその当たり前のことが、異境では異彩を放ち、事業を進展させる力となり得る。

合弁事業を進める上で何度も壁にぶつかり、そのたびに頭を抱えて苦汁を飲んできたが、34年をかけてインドネシアで見つけたもの。それは日本の心ともいうべきものだった。「日本人であること、日本人に生まれてよかった」と小林さんはしみじみと話した。

最愛の人は生まれ故郷でもある芦屋の霊園で眠る。小林さんは12月で74歳になるが、この先、インドネシアという異境の地でどこまでやるか。

「自分がチャレンジングでポジティブ、そしてアクティブであるかぎり頑張るでしょう。わたしの場合、誰かの役に立っている、何かに貢献しているといった思いが原動力になります」

9月3日に開かれたジャカルタ日本祭りで、インドネシア語で開会のあいさつをする実行委員長の小林さん(NNA撮影)

ジャカルタ日本祭り(JJM)の実行委員長を引き受けたのも、そうした思いがあったからこそ。09年から始まったJJMの実行委員会発足時からかかわり、12年に初代委員長の黒田憲一さんからのバトンを受け取った。

JJMは日本とインドネシアの友好関係の促進と深化を目的に毎年開催されるが、今年は9月3、4日に開かれた。参加者数はジャカルタ市民を中心に約3万人。会場を訪れて実行委員長である小林さんの思いを聞くと、「次の世代へポジティブなものを残していきたい。若い人には無限の可能性がありますから」と語った。

公私ともに多忙な小林さん。この人と話していると、目先のことばかりに気をとられる自分の卑小さを痛感する。その一方で「世のため人のために」という声にはならない言葉が心に染みわたり、元気づけられる。「前を向いて歩きましょうよ」という大きなエールをもらった気がした。(完)