【インドネシアに生きる】邦人社会の重鎮は柔道7段 松山からジャカルタへ(1)

すべては柔道から始まった。柔道がなければインドネシアも無論ない。人の輪は四国の松山仕込みの柔道を通して広がり、社会に出てからは、労務畑の仕事に柔道が生きた。足かけ40年になるインドネシア暮らしの中で、組み手や足技を教えた若者は数知れず。これまでさまざまな役職を引き受けてきたが、その多くは柔道が取り持つ縁。東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)は、その風ぼうからしても、「ジャカルタ邦人社会の重鎮」との形容がぴったりだ。(大住昭)

9月初めに開かれたジャカルタ日本祭りのイベント会場。5年前まで実行委員長を務め、いまは顧問席に座る黒田さんに「お話を聞きたいんですが」と、だめもとで声をかけた。すると大きな体に似合わない柔和な声で「いいですよ、オフィスに来てください」。数日後、ビジネス街のスディルマン通りにあるオフィスにうかがった。

会社は年初に日本旅行の傘下に入ったインドネシアの東レ系旅行会社ジャバト・インターナショナル。取材に先立ち、質問事項をメールで送っておいたが、会長職を務める黒田さんは、職歴や柔道歴が記されたものを用意してくれていた。それには昭和や平成の元号と西暦の両方が併記され、月日まで書き込まれている。柔道7段の巨漢は、見かけによらず芸が細かい。いや、きちょうめんで記憶力抜群と言うべきか。

仕事部屋の壁には、黒田さんという人物の一端を物語る写真が掲げられている。安倍晋三首相や福田康夫元首相、石原慎太郎元東京都知事らのほか、今年5月にジャカルタを訪れた鈴木大地スポーツ庁長官らと並んで撮った写真もある。

インドネシア暮らしの長い黒田さんははじめ、鈴木大地という人物を知らなかった。前もって関係者に聞くと、1988年ソウル五輪の背泳ぎ金メダリストとのこと。「長官にしては道理で体ががっしりしているなあ」と思った。それでも黒田さんの身長は、180センチの鈴木長官よりも4センチ高い。

榊原定征さんとのツーショットもある。東レで社長や会長を務め、2年前に経団連の会長になった榊原さんは黒田さんより7歳年下。ジャカルタのゴルフ場でくつろぐ榊原さん夫妻を黒田さんらが囲んだ集合写真もあった。

日本の郷里の話になって回想談が一段落すると、思い出したかのように、スチール製の仕事机の引き出しから何かを取り出す。見れば、使い込まれたそろばんだった。柔道で鍛えたごつい手にそろばんは不釣り合いだが、黒田さんは「いまでもたまに使っていますよ」と言う。四国の商業高校仕込みの指の動きはいまだ健在だった。

■ 松山商業の柔道部に


昭和11年(1936年)、愛媛県松山市生まれで、4人きょうだいの長男。

「父親は小柄で、弟や妹も小さいほう。わたしだけ突然変異みたいに、ガキのころから飛び抜けてデカかった。学校の教室ではいつも一番うしろの席。家族の中では母親がちょっと大きめでしたねえ」

父親は町の商店の事務員。年をとってから自分で商売しようとしたが、パッとしなかった。家は貧しくて麦飯さえも食べられず、口に入るものといえばイモばかり。戦中戦後のこの時期は、友だちの家も似たり寄ったりで、一様に食糧難にあえいでいた。

家にラジオがなかったので、隣家で聞かせてもらっていた。小学校3年生になった1945年の8月15日に聞いた玉音放送は、ガーガーと雑音がうるさいばかりで、天皇陛下の声はほとんど聞き取れなかった。

生家は松山港の近く。周辺には船乗りが多く、父親の実兄は外国航路の船長をしていた。そのおじから外国の人や街が写った白黒の写真をよく見せてもらう。異境での武勇伝を熱っぽく語る船員たちもいて、その話にじっと耳を傾けながら想像をたくましくした。

「子供のころはおじにならって外国航路の船乗りになりたかったですね。けど、そうなるためには商船学校に進まなければならなかった。家にはそんな余裕はなかったですね」

ガキ大将で鳴らし、いつも子分が2、3人いた。体の大きさと闘魂は往々にして一致しないが、このガキ大将は守るよりも攻め一筋。そのせいか、あごで使える手下が自然とついてきた。

高校は家から通える松山商業にする。松山城のすぐ近くにあり、校内のどこからでも城が見えた。

入学したての入部勧誘ではまずバスケット部から声をかけられた。しかしバスケットはなんだかボールのお遊びみたいな感じがして敬遠する。つぎに背は低いが、がっちりした体つきの柔道部員が来て、「おいこら、黒田、ちょっと来い!」と呼ばれる。あらかじめ目をつけられていたようだ。気迫に負けてついていくと、柔道部に即入部。その日から受け身の練習をやらされた。

ジャカルタを5月に訪れた鈴木大地スポーツ庁長官らと。黒田さんは水泳の五輪金メダリストのことを知らなかった(黒田さん提供)

■ そろばんと柔道と


寝ても覚めても柔道ばかり。めきめき上達するが、その分、勉強はおろそかになる。松山商業ではそろばんができないと進級できない。そろばんの補習があった日、わざと柔道着を家に忘れた。柔道6段の指導教官には「そろばんの補習があるのできょうの練習は休ませてください」などとは口が裂けても言えない。それで一考し、柔道着を忘れたので休ませてほしいと申し出た。

「なにぃ、柔道着を忘れた! そんならワシのでやれ!」

そう一喝される。指導教官の柔道着に腕を通しながら、「柔道からはもう逃げられん。一生やらないかん」と覚悟した。

3年生になって2段になり、1954年の北海道国体に愛媛代表の柔道選手として出場する。松山を出て宇高連絡船に乗り、岡山から東京経由で青森へ。青函連絡船で函館に渡ったあと、汽車に乗ってようやく着いた苫小牧の町は、四国の菜の花育ちの若者には「さいはての地」のように思われた。

試合を終えると、摩周湖や釧路などに足を延ばし、北海道の雄大さを体感する。「卒業したら、北海道で働くのもええなあ」などと思ったりもした。

翌年の卒業時は、高度経済成長の始まりに当たる神武景気のさなか。柔道の若き獅子は引く手あまたで、愛媛県警や天理大学などからも声がかかった。

愛媛には戦前から東レ(設立当初は東洋絹織、のちに東洋レーヨン)の工場があった。そこに54年の全日本柔道選手権大会で2位となった中村常男さんがいた。黒田さんが何度かかっていってもまったく歯が立たなかった柔道の達人だ。その中村さんから「うちに来んか」と誘われた。

■ 東レ愛媛工場に勤務


東レを受けると、なぜか滋賀工場の採用となる。それで愛媛工場の柔道部からは「地元に帰ってこい」コール。愛媛県の実業団大会で優勝するためには黒田がどうしても必要という。黒田さんはその期待にこたえ、地元に戻って大会に出場。難敵の愛媛県警を破ってチームを優勝に導いた。

愛媛工場での配属先は労務課。最初の配属がその後の会社人生を決定したかのごとく、18歳で入社した柔道の猛者は、会社では一貫して労務畑を歩く。必要に応じて人員の採用も担当した。

あるとき、課長に「社員寮の舎監をやってくれ」と頼まれる。300人ほどの寮生がいるその寮に出向くと、年配の用務員にこう言われた。「舎監というのは年寄りの仕事。あんたみたいな若い人には向かないよ」。

課長にそのことを伝えると、「黒田君、勘違いするな。年寄りを舎監にしていたから、寮はうまく回らなかった。だから若い黒田君を送り込むんだ。寮生に元気を出させるため、社員寮を改革するために君を舎監にするんだ」と言われた。

寮生の中には酔って帰ってくだを巻いたり、石を投げて窓ガラスを割ったりする不届き者もいる。新任の若い舎監は、難癖をつける寮生がいれば、首根っこをつかんで投げ飛ばした。寮生にしても相手が相手だけに歯向かえなかった。

寮の用心棒役を務めながら、寮生の悩みにも耳を貸す。そこには家やカネや女のことなど、各人各様の事情があった。

「舎監は3年やったんですが、人間観察という点ではいい経験になりましたね」

27歳になって所帯を持つ。見合い結婚で新婦は2歳年下だった。会社の社宅で新婚生活が始まったが、新郎は公私ともに忙しい。いや、公私の線引きが難しかった。週末はいつも柔道の練習で、試合があるたびに家を留守にする。松山に戻れば道後温泉で疲れをとった。

人の採用では徳島など四国各地を駆け回った。訪れた町では頼まれて、小中学校などで柔道を教える。子供たちは強い人に自然とあこがれるようになるが、それが結果として東レへの就職希望者の増加となった。

■ 最初のジャカルタ赴任


1971年の5月、黒田さん35歳のとき、東レがジャカルタ郊外のタンゲランに設けたインドネシア・シンセティック・テキスタイル・ミルズ社(略称イステム)に第一陣の日本人スタッフとして赴任する。東レにとってはバンコクに次ぐ海外拠点だった。

当時はインドネシアの繊維産業の勃興期。東レに続き、帝人やクラボウなども進出した。

キャセイ航空で、大阪の伊丹から台北経由で香港着。飛行機を乗り換えてバンコクまで飛び、一泊して東レの先輩にあいさつしたあと、シンガポール経由でジャカルタのクマヨラン空港に着く。そのときには夜になっていた。

「薄暗がりのなかで荷物を待っていたんですけど、色の黒いひげづらの男がやって来てぎゃあぎゃあ騒ぐんです。何を言っているのか、さっぱりわからない。大変なところに来てしまったなあと思いました」

タンゲラン工場は周辺の田んぼをつぶして74ヘクタールの土地に建てられたが、当時の電力供給はきわめて不安定。一回停電すれば数日そのままだった。

生産ラインの女性従業員は、はだしで工場にやってくる。サンダルすら履いていなかった。工場内では会社が支給したクツを履くように指導する。それでもトイレに行くときなどは、クツを脱いではだしで駆け出す。労務担当の黒田さんは「クツを脱ぐな」「作業着を着ろ」「帽子をかぶれ」と言って回った。

イステムは操業2年目にナイロンやテトロンなどの合繊工場を稼働させる。3年目に入ると、従業員は千人近くに膨れ上がった。

柔道で鍛えたごつい手で、いまもそろばんをはじく。黒田さんのオフィスで(NNA撮影)

第一陣の工場立ち上げ要員であったため、単身で赴任する。家族を帯同できる環境ではなかった。当初は工場近くの社宅住まい。あとになってジャカルタ市内に家を借りたが、当時は渋滞皆無。高速道路はなかったが、家から車で40分もあれば工場に着いた。

はじめはノイローゼになるほど落ち込んだこともあった。こちらがよかれと思って懸命になればなるほど人は離れていき、思いばかりが空回りする。日本人の尺度に合った幸福感を押し売りしても、いまのままで幸せと思っているインドネシア人には通じなかった。

何度も苦汁を飲むうちに、異文化育ちの相手を否定するよりもまず肯定し、その価値観を尊重することこそ、相手と気持ちを合わせるための第一歩ではないかと思うようになった。(続く)