【インドネシアに生きる】柔道指導で現地に深入り 松山からジャカルタへ(2)

ジャカルタの工場勤務で異文化体験をしたあと、古巣の東レ愛媛工場に戻り、ひと仕事終えてから1980年に再びインドネシアに旅立つ。それ以降、所用で一時帰国することはあっても、仕事と生活の場は基本的にジャカルタだ。自分でそう決めたわけではないが、インドネシアでの柔道指導などを通して人の輪が広がるうちに、自然とこの南国の地に深入りしてしまった。東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)がこれまでに柔道を教えた軍や警察の幹部候補生は千人を超える。(大住昭)

1973年、黒田さん(左)37歳のとき、ジャカルタで柔道指導に汗を流す(黒田さん提供)

ジャカルタ郊外にある東レのタンゲラン工場には1971年の立ち上げからかかわったが、74年1月、当時の田中角栄首相が東南アジア歴訪の最後の訪問先としてジャカルタを訪れた際、のちに「マラリ事件」と呼ばれる反日暴動が起きる。インドネシアに進出した日系企業が当時のスハルト大統領側近の将校や華人系財閥と癒着してビジネスを拡大しているとして、暴徒たちは華人系企業や日系企業のオフィスや日本車などを焼き打ちにした。

黒田さんら東レの日本人社員はこのため、タンゲラン工場からジャカルタの家に帰宅できず、工場での泊まり込みを余儀なくされた。そのときに若いインドネシア人従業員が口にしたセリフはいまも忘れられない。

「黒田さん、心配しなくていいですよ。工場はわれわれインドネシア人のものでもあります。暴徒がここにやってきたら、われわれが工場を守りますよ」

この言葉にしびれた。胸が熱くなり、インドネシアが一気に好きになった。大学を出たばかりのその従業員は後年、工場長となって会社を支えた。

■ 労務問題で奔走


ジャカルタ勤務が3年を過ぎたその年の春、愛媛工場に呼び戻される。東洋レーヨンは70年に現在の東レに社名変更するが、愛媛工場では生産を停止したレーヨン部門の人員を整理する必要があった。その適任者として白羽の矢が立ったのがジャカルタ出向中の黒田さんだった。

かつては人員の採用で東奔西走し、寮の舎監として采配を振るったこともある。現場知らずの大卒幹部とはひと味ちがう交渉術や説得力を身につけていた。のちに東レの社長や会長を務めた上司の前田勝之助さんから「お前しかできんから頼む」と言われ、古巣に戻った黒田さんは会社の期待に沿う形で人員整理を断行する。前田さんとはそのときから、上司と部下の関係を超えた人間的なつながりを持つようになった。

そうこうしているうちに、ジャカルタのもとの工場で労働争議が持ち上がる。「従業員が騒ぎ出して収拾がつかなくなった。こっちに戻ってきてくれ」と、かつての上司に頼まれる。それで80年に再度赴任するが、そのことによってインドネシア暮らしが現在まで続くとは当時は思ってもみなかった。運命的ともいえる長居のきっかけをつくったのは、やはり柔道だった。

2度目の赴任は家族同伴。奥さんと3人の子供のうち末っ子の娘がついて来た。

■ 警察大学で柔道指導


6年ぶりに舞い戻った工場は、従業員によるストライキの渦中にあった。再赴任した黒田さんは総務担当の取締役として辣腕(らつわん)を振るう。状況は深刻だったが、かつての人脈を総動員し、柔道で鍛えた粘り腰で労使間のゴタゴタを収束させ、工場を早期に正常化させることができた。

その間は柔道どころではなかったが、争議が一段落した82年になると日本大使館の濱田雄二二等書記官(現じゃかるた新聞顧問)から「警察大学で学生に柔道を教えてやってくれませんか」と頼まれる。軍の高官などに紹介されたあと、柔道を必修科目に取り入れた警察大学(PTIK)に週2回通った。

柔道指導は約10年続く。この間、東レ柔道部とインドネシア警察の柔道部員との人的交流などにも注力してきた。

PTIKで指導に汗を流していると、あるとき学生の一人からこんな要望が出た。

「黒田先生は体が大きすぎるので、われわれではとても投げられません。インドネシア人の背丈に見合った、もっと小柄な方を連れて来てください」

これには多少の冗談もまじるが、訓練生の本音だった。黒田さんは基本的に攻めの柔道。攻めて攻めて攻め抜くことしか頭にない。軽量のインドネシア人にはとても太刀打ちできなかった。そんな自分を黒田さん本人は「教えるのは得意じゃなく、基本的に下手なんですよ」と自己評価する。

1980年、黒田さん(前列中央)がジャカルタに再赴任する前に松山で開かれた友人による送別会(黒田さん提供)

■ 柔道会館建設を支援


インドネシアでの戦後の柔道普及には先駆者がいる。その一人、ジャカルタの英雄墓地で眠る残留日本兵の牧野正一さんが開いた町道場は、粗末なバラックの建物だったが、インドネシア大学の学生などが通っていた。

黒田さんの最初の赴任時、その道場で試合があることを耳にした。出場してもいいかなと思ったが、念のために柔道の先輩で当時は東レの愛媛工場長だった清水茂一さんに相談したところ、一喝された。

「バカ言うな。サーカスの団長がサーカスをしたら、どうなるんだ。お前がやるべきことは、試合に出て相手を投げ飛ばすことではなく、インドネシアの柔道を発展させるためにはどうするべきかを考えて、それを実行することだろうが」

清水先輩の声を電話で聞きながら、黒田さんは「お説、ごもっとも」と感じ入った。

インドネシアの警察高官は日本の警察組織を視察する中で、日本人警官の責任感や高いモラルには柔道や剣道などで培われた武道精神があると考え、インドネシア国内での柔道の普及を提唱するようになる。高官の目には、ジャカルタ在住の黒田さんはその相談相手にぴったりの人と映った。

90年に入ると、陸軍参謀長を務めたインドネシア柔道協会のウィスモヨ会長から大きな案件を持ち込まれる。会長によると、日本の柔道が強いのは講道館のような組織があるから。インドネシアにも全国に誇れるような柔道会館を建設したい。ついてはこの方面で協力してほしいとの要望だった。

黒田さんはこのことを東レ本社の前田勝之助社長(当時)に伝える。すると東レは社会貢献活動の一環として100億ルピアの拠出を決めた。その後のルピア切り下げなどで建設コストは最終的に300億ルピアに膨らむが、工事はジャカルタ南部の西ジャワ州チロトで91年6月にスタート。会館は翌年9月に完成した。3階建てで宿舎も備えた会館の柔道場は約250畳の広さがある。

■ 過去の反省を教訓に


柔道会館は地元の人や子供たちも気軽に足を運べるような、開放的な造りにしたが、これには建設推進役の黒田さんの願いが込められている。その願いは過去の反省を下地にするものだ。

東レのタンゲラン工場に最初に赴任したとき、イスラム教徒が大多数を占める従業員から「工場内に礼拝所をつくってほしい」との要請があった。労務担当の黒田さんをはじめ会社側はこの申し出に消極的だった。工場の生産ラインは1秒たりとて止めるわけにはいかず、お祈りに時間を取られては困るといった考えから、礼拝所は社員食堂の裏の小さなスペースに設けた。見るからに貧相な施設だった。

「インドネシアに長居するうちに異文化への対応の重大さを学びました。時計の針を戻せるものなら、礼拝所は工場の正門近くに設け、地元の人も金曜日などにはやってくることができるような、きちんとした施設にするでしょうね。あのときは申し訳なかったという気持ちがずっと尾を引いていました」

80年代以降のインドネシアでの柔道ブームは、黒田さんや東レの柔道部がけん引役となったが、外務省や大使館もこれを全面的に支援した。88年になって国際協力機構(JICA)は、青年海外協力隊員の安斎俊哉さんを柔道指導員としてジャカルタに派遣する。黒田さんによると、それ以降、これまでに15人が送り込まれている。インドネシアで操業する日系企業や日本の小金井ロータリークラブなどからは、必要に応じて畳や柔道着などが寄贈されてきた。

インドネシア柔道会館の建設現場で。黒田さん56歳のとき(黒田さん提供)

■ 旭日双光章を受章


柔道を通して人の輪が広がる中、黒田さんは日系企業の関係者から持ち込まれる労務問題の相談に乗るなど、ジャカルタの邦人社会では欠かせない存在になる。83年に発足した日系企業の産業別懇談会では長く幹事職を引き受け、住友商事から東芝ディスプレーに出向して現在は住商グローバル・ロジスティックに務める内原正司さんにバトンタッチした。
91年にはジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)に柔道部ができるが、黒田さんはその初代部長に就任する。柔道部の発足時、40人ほどの日本人が会員に名を連ねた。また2009年にスタートしたジャカルタ日本祭りでは、初代の実行委員長に就任。12年までやって財閥大手シナールマスの小林一則さんにあとを頼んだ。

2007年春の叙勲で旭日双光章を贈られ、インドネシア大使館の大使公邸で受章スピーチをする(黒田さん提供)

インドネシアの軍や警察幹部から柔道を通して信頼される一方で、黒田さんは民間主導の柔道場建設にも積極的にかかわってきた。そうした活動が評価され、1998年には当時のハビビ大統領から外国人では第1号となるスポーツ功労賞を贈られる。また2007年の春の叙勲では「インドネシアにおける柔道の普及と発展に情熱を傾け、日本とインドネシアとの友好親善に大きく貢献した」との理由で、旭日双光章を授与された。

インドネシアに来てからの柔道は指導が中心となるが、練習と研さんは欠かさず、1985年には講道館の6段に昇段。そして2000年には7段になる。
70歳を境にして柔道着に身を包むことはほとんどなくなったが、郷里の松山から始まる長い柔道人生を振り返るなかで、黒田さんは次のように言う。

「柔道をやっていなければ、インドネシアに来ることもなかったでしょうし、大勢の人たちと交わることもなかったでしょう。わたしは松山商業から大学には進まなかったけど、インドネシアがいわば大学のようなものです。インドネシア大学体育学部の柔道学科でしっかり学ばせてもらいました」
(続く)