【インドネシアに生きる】永眠の地はインドネシア 松山からジャカルタへ(3)

身長184センチで、柔道7段の巨漢。どこにいてもたっぷりな存在感がある。人はふつう、顔で覚えたり覚えられたりするが、この人は大きな体が名刺代わりだ。人ごみの中でも、ひと目ですぐわかる。仕事では長年、労務畑を歩いてきたためか、人を見るまなざしは鋭いが、そこに人情味が漂うのは器の大きさのせいだろう。ジャカルタ在住40年の東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)には、どこかに人を引きつける磁力がある。それこそがジャカルタ邦人社会の重鎮と呼ばれるゆえんでもあるのだろう。インドネシアで眠る覚悟の重鎮は「この国は将来、大きく発展する」と信じて疑わない。(大住昭)

インドネシアの社会や文化の多様性を、言葉ではなく実際に体感したい――そんな思いから、34州すべてに足を運んだ。その中には一般の人が立ち入れない秘境もあるが、黒田さんが柔道を通して親交のある軍や警察の高官、また組み手や足技を教えた幹部候補生たちはインドネシア全土にいる。電話一本で訪問は可能だ。日本のテレビ局のスタッフや新聞記者の現地取材にも、頼まれれば同行して便宜を図ってきた。

インドネシア東部のパプア州とパプアニューギニアとの国境の奥地には何度も訪れた。そこは年中はだかで暮らすダニ族の集落で、現代文明から切り離された小世界が広がっている。また、東カリマンタン州を流れる大河、マハカム川を河口のサマリンダから船でさかのぼるツアーには、数え切れないほど参加した。

「秘境と呼ばれるところに行くと、夜になるとあたりは漆黒の闇で、見上げると満天の星空が広がっています。流れ星を見ながら、自分の人生、これでよかったのかなどと自問したりするんですが、そのたびに、これでいいのだと自答していました。日常から離れた旅は、自分をみつめるきっかけになりますね」

■ 亭主元気で留守がいい


27歳で所帯を持ち、3人の子供を授かった。孫は6人いる。家族でジャカルタに住んだのは奥さんと末っ子の次女だけだ。黒田さんの2度目の赴任時についてきたが、3年が過ぎて次女が高校に進学する前に2人とも松山に帰ってしまう。黒田さんはそれ以来、ずっと単身だ。

松山の家は瀬戸内海が一望できる高台にある。長男と長女は所帯を持って家を離れ、そこでは奥さんと次女の家族が暮らす。看護師の次女からは週に1回はメールをもらい、急ぎの場合は電話で連絡する。

「30年ぐらい前にテレビのCMでやっていたでしょう。亭主元気で留守がいいって。うちはその典型です」

仕事と柔道を通してインドネシアに深入りしてしまったとはいえ、どこかの時点でジャカルタから腰を上げることもできたのではないか。そう聞くと、黒田さんはしばらく考えたあと、「やっぱりここで出会った人たちとのつながりというか、関係からなんでしょうね」と答えた。

足かけ40年のインドネシア暮らしの中で培った人の関係。還暦を過ぎてから日本でそれを構築するのはもはや不可能だ。ジャカルタには大勢の友人がいる。再就職を世話してあげ、それが決まれば気分がいい。誰かに頼りにされていること自体、うれしいと思っている。

■ 愛媛県人会の会長


そうかといって、日本、とりわけ郷里の愛媛との関係が切れたわけではない。黒田さんがジャカルタに居続けることによって、それはかえって強くなっている。

十数年前、自分が言い出しっぺで伊予弁会をつくった。愛媛大学などに留学したインドネシア人も加わるようになり、同会はのちに愛媛県人会と名称を変更。いまでは70人ほどの会員がいて、懇親会やゴルフコンペなどで会員同士の親睦を深めている。

会長の黒田さんは、松山市長から愛媛県知事となった中村時広さんらと親しい。昨年10月には谷崎泰明・駐インドネシア大使と一緒に愛媛県庁を訪れ、中村知事と懇談する。県内企業のインドネシア進出や現地の投資環境などについて、ざっくばらんに意見交換した。

黒田さんのもとには、しまなみ海道国際サイクリング大会への招待状が届いている。愛媛県の今治と広島県の尾道を結ぶしまなみ海道。瀬戸内海の絶景を見ながら、そこを駆け抜けるイベントだが、黒田さんは「今年は10月末に開かれるんですけど、その時期に帰るのはちょっと無理かなあ」と、残念そうに言った。

1980年の2回目の赴任時、南カリマンタン州の州都、バンジャルマシンへの家族旅行。写真右から長女、次女、奥さん(黒田さん提供)

年に一度は帰国する。以前は成田に着くと、東レの東京本社に顔を出してから松山行きの便に乗っていたが、羽田で国際線から国内線への乗り換えが可能になってからはそのまま松山に向かうようになった。

郷里にしばらくいて腰を上げるときは、松山空港を朝7時30分に飛び立つと羽田経由でジャカルタには午後4時前に到着する。キャセイ航空で大阪から台北、香港、バンコク、シンガポールと乗り継いでいた45年前のことを思い出すと、隔世の感がある。

日本人駐在員が集まれば、なにかとジャカルタの渋滞が話題になり、ぼやき声がついつい出てしまう。黒田さんは渋滞について私見があり、「地下鉄ができて環状線が完成するまで待てばいいだけの話。たいしたことじゃないんですがね」と語る。

食事には好き嫌いなし。身をもって戦中戦後の空腹を体験しているせいか、インドネシア料理であれ中華料理であれ、何でもおいしく食べられる。黒田さんの場合、食へのこだわりのなさもインドネシアへの適応力の一つとなっているようだ。

本紙NNAインドネシア版はジャカルタで20年前に創刊したが、当時はショッピングモールなど数えるほどしかなかったし、店内には薄暗さがあった。ところがいまやモールは各地に林立し、週末ともなればいずこも大勢の客で混雑しており、消費パワーのさく裂が見られる。

黒田さんによると、インドネシア経済が好転する兆しは2008年にあった。同年にはリーマンショックが起きたが、通貨のルピアは暴落せずに持ちこたえる。10年には6.1%の経済成長率を達成し、国民一人あたりの国内総生産(GDP)は3,000米ドルを突破した。

食うことだけで精いっぱいだったころから消費をおう歌する時代に入り、余裕が出てきた中流家庭では子供たちの教育に力を入れるようになった。ある意味でそれは、1998年のスハルト体制崩壊後の民主化の定着度を物語っている。

黒田さんの家に長年住み込むお手伝いさんの夫婦には娘が2人いる。2人とも大学を出て公認会計士やコンピュータープログラマーをしており、黒田さんの自慢の種だ。

「これはわたしの観察なんですが、2014年を境にしてインドネシア人の人相が変わりましたね。かげりのようなものがなくなりました。貧しかった昔にもう後戻りすることはないでしょう。この先、多少の波乱はあるとしても、インドネシアは発展し続けるとわたしは信じています。そんなインドネシアで気心の知れた仲間と一緒に余生を送れるのは、ただもう幸せのひと言ですよ」

1998年の暮れ、ジャカルタで最も古いラワマングンのゴルフ場で(黒田さん提供)

若いときは一升瓶を何本も転がすほどの酒豪だったが、5年前に体調を崩す。松山から看護師の次女が駆けつけ、一緒に帰省して郷里の病院で診てもらうと、心肥大が見つかった。医師からは減量を命じられ、120キロあった当時の体重をいまは100キロに落としている。

朝6時半に起き、旅行会社のオフィスに毎日出勤する。週に2~3回は夕食会があるが、自分で門限を夜9時と決め、早く帰宅するように心がけている。ゴルフは週に1回のペース。コースでは豪快にクラブを振り、健康のために汗を流す。

■ 骨つぼは日本人納骨堂に


70歳を過ぎたころ、永眠の地はインドネシアと決めた。郷里の松山には両親の墓があるが、爪と髪の毛は子供に持って帰らせ、自分はここで眠る覚悟だ。

そう思うようになってから、以前にも増して健康に注意を払い、日常の生活にも用心するようになった。難病にかかったり、テロや交通事故などに巻き込まれないよう普段から気をつけている。自分が先に逝けば、あとに残る仲間たちに「黒田は幸せな人生だった」と言ってもらえる、そんな余生の幕引きでありたいと願っている。

今年の9月23日、ジャカルタのプタンプラン墓地内にある日本人納骨堂で慰霊祭が開かれたが、黒田さんは春と秋に年2回行われるこの慰霊祭には欠かさず出席している。

この納骨堂は、1931年に当時の日本人会有志が発起人となり、バタビア日本人会共済会を組織して建立。ジャカルタ市内に点在していた身元不詳のからゆきさんの墓の遺骨を集めて安置した。戦後になって参拝者もなく荒れ放題になっていたが、見るに見かねた日本人有志が59年に保存会を結成。在留邦人から寄付を仰ぎ、市内に散在していた日本人の遺骨をこの納骨堂に集め、翌年から慰霊祭を行うようになった。

故人の戒名や死亡年月日などが記された過去帳には、合わせて277人の氏名が記載されている。出身地は、北は樺太から南は沖縄までさまざまだ。

秋の慰霊祭は、長野県から来られた久遠山延寿院の伊佐榮豊住職による読経と出席者全員による焼香を終えて散会した。黒田さんはそのあと納骨堂の中に入り、骨つぼが安置された棚に目をやりながら、「スペースはまだあるので、わたしの骨つぼはここに置いてもらおうと思っています」と、湿り気なしの口調で話した。

ジャカルタの日本人納骨堂前で今年9月に行われた秋の慰霊祭で。前列左から3人目が黒田さん、5人目が伊佐住職(黒田さん提供)

朝9時からの取材が一段落すると、「食事にしましょう」と誘われた。オフィスを出ると、黒田さんは廊下や通路ですれ違う人から軽く一礼される。みんな顔なじみのようだが、相手にすれば顔を見なくてもその姿形で黒田さんとすぐにわかるのだろう。

案内されてオフィス近くの和食レストランに入った。店内でも四方に存在感を放つ常連客は、インドネシア語で店員に注文する。そのあと日本人のおかみさんが「あらあ、黒田さん」とあいさつにやってくる。ジャカルタ邦人社会の重鎮は、巨体に似合わない柔らかな声で対応していた。(完)