【インドネシアに生きる】半生を東ジャワの木材業に 元青年協力隊員の家族愛(1)

若い頃にネパール山中で一生分を歩いたという薩摩隼人。電気のない村々を巡回する青年海外協力隊での2年半は、試練の連続であったにちがいないが、さらりと「楽しかったですよ」のひと言。スラバヤを州都とする東ジャワ州で、半生を木材加工業にささげてきた。還暦を前にしてその先を思案するが、胸中にはつねに家族がいる。ハウテック・インドネシアの社長と技術者という2つの顔を持つ徳丸憲一さん(56)は、きょうもスラバヤ郊外の工場で製品に目を光らせながら、日本の木材産業の明日を読み、植林事業などを通してのインドネシアへの貢献を展望する。(大住昭)

スラバヤの空は青い。ジャカルタからの訪問者は、口をそろえるかのようにそう言う。人口ではインドネシア第2位の都市だが、1,000万人を擁する首都ジャカルタに比べると、3分の1弱でしかない。その分、青空が広がり、木々の緑が目にやさしい。

最初に赴任した1988年当時のスラバヤは、何もない街だった。夜は暗く、停電もしょっちゅう起きた。ここ数年で高層ビルと車は一気に増えたが、肝心の道路は旧態依然。「ロータリーに信号がついたくらいですよ」と、徳丸さんは言って笑う。

木材会社のハウテック・インドネシアは、スラバヤから南に60キロほど離れた工業団地の一角にある。スラバヤに住む徳丸さんは、平日はインドネシア人ドライバーが運転する車で通勤するが、朝は1時間20分、夕方の帰路は約2時間かかる。

通勤路の途中、高速道路が寸断され、一般道を走らなければならない箇所がある。天然ガス田の試掘中に火山活動の影響で大量のドロが噴出し、周辺の村々をのみ込んでしまった。インドネシアでは「シドアルジョ県のドロ噴出事故」として知られるが、この事故が発生したのは2006年の5月末。ハウテック・インドネシアの工場が操業を始めたちょうど1週間後のことだった。

「この事故は、うちの工場の歴史と同じなんですよ」

10年前の工場の立ち上げからかかわった徳丸さんは、笑顔でそう言ったが、その声には被災者へのあふれんばかりの同情が混じっていた。

■ 鹿児島の野生児


1960年生まれで、出身は鹿児島県鹿屋市。以前は曽於郡(そおぐん)輝北(きほく)町だったが、10年前の市町村合併で鹿屋市に入った。海上自衛隊の航空基地がある同市は、錦江湾をはさんで西に位置する南九州市の知覧町とともに、かつて特攻基地があったところとして有名だ。市内には81年開校の国立の鹿屋体育大学がある。

郷里の輝北町は、活火山である桜島のちょうど真東。標高300メートルほどの山間の町だ。鹿屋市内に行くには、当時はバスで2時間近くかかった。

鹿屋の町で生まれた母親は、人の紹介で森林組合に勤める父親と見合い結婚したが、嫁いだばかりのころは「すごい田舎に来てしまった」と嘆いていたという。徳丸さんは長男で、下に弟が一人いる。家では専業主婦の母親が内職で大島紬(つむぎ)を織っていた。

子供のころは野山を駆け回った。清流でハヤを釣ったり、鳥モチでメジロなどの小鳥を捕まえたり。野生児として育つが、学校の勉強もそこそこにやり、地元の小中学校では級長に選ばれ、いつも胸に赤い房をつるしていた。

県立の鹿屋高校に進むが、通学できる距離ではなかったため市内に下宿する。親元から離れたので羽を伸ばせたでしょうと水を向けると、「いや、その反対です。町ではなんだか気後れして、高校の3年間は別にワルさもせず、真面目一本でした」と言う。

成績は中レベル。国立大学を狙える最低ラインだった。父親の後ろ姿を見てきたせいもあって、大学に進むなら林学をやりたかった。そこで地元の鹿児島大学を受験するが不合格。高知大学の農学部林学科に滑り込んだ。

薩摩から黒潮にのって土佐に流れ着き、焼酎とはおさらばして日本酒で身を清める。酒はもともといける口。バレー部に入部すると、その日からがんがん飲まされた。高知名物の皿鉢(さわち)料理を囲んだコンパなどでは、大杯になみなみと注がれた酒を両手で一気飲み。高知では「よたんぼ」と言われるほどの酒豪になった。

■ 協力隊に飛びつく


土佐弁に慣れてくると、風土や気候にも影響された土佐人の気質は薩摩人と似たところがあるように思う。暮らしやすかった。農学部キャンパス近くの海辺に行けば、太平洋の大海原がドカーンと広がっている。水平線を眺めながら、その向こうにある異境への想像力をふくらませた。

高知大学には地元勢よりも関西出身者が多かったが、卒業を控えた林学科の同級生の多くは出身地の県庁や市役所に職を見つける。公務員になる気はなかった徳丸さんは「もう1年、大学に残ってもいいかな」と思っていたが、ある日、青年海外協力隊のポスターが目にとまった。説明会を聞きに行き、「これだ!」と思った。

大学で学んだ林学を外国で生かしたい。アフリカの大地で植林に取り組む自分の姿を想像しては興奮したが、希望する森林経営の分野は募集人員が限られている。また、協力隊員になるには一定期間の職務経験が必要だった。

新卒だから経験なし。それでも受験すると、補欠合格となる。協力隊の事務局から「実務の研修を受けてください」と指示され、高知県の林業試験場に3カ月間通う。そして正式に合格した。

漠然とアフリカ行きを夢見ていたが、林業専門家の派遣要請があったのはネパールだった。まったくの想定外。それでも「行きます!」と即答した。

■ ネパールで一生分歩く


青年海外協力隊は1965年の創設。最初の派遣先はラオスで、5人が送り込まれた。昨年までの50年間の累計では、シニア海外ボランティアなどを加えた派遣先は96カ国を数え、派遣隊員は約4万7,000人に上る。

83年当時の協力隊合格者は、徳丸さんを含めて130人。入隊して最初の1カ月は東京の広尾訓練所で研修を受けた。次いで長野県の駒ヶ根訓練所に入り、3カ月半合宿する。軍隊式の早朝起床。体力づくりで汗を流した。徳丸さんらネパール派遣要員は、ネパール人の先生から現地の言葉と文化をみっちり指導された。

84年4月にネパールの首都カトマンズに到着し、そこからは別行動になる。徳丸さんは西のポカラに向かい、1カ月間ホームステイして生活習慣を実地で覚える。ネパール語もある程度は話せるようになった。

下準備を終えると、いよいよ本番。バスでポカラから南に2時間ほど下り、そこからひたすら山道を歩く。「どんなところに連れていかれるんだろう」という不安もあったが、2日がかりで着いたのはヒマラヤ山系西端の高峰、ダウラギリ山のふもとの町だった。そこの営林署に入った。

道すがら、目にしたのは乱伐後のはげ山の無残さだった。木々は片っ端から燃料にされ、緑がなくなったはげ山にはむき出しの赤土が広がっていた。

町で間借りをするが、ほとんど出歩く。徳丸さんに与えられた任務は、植林用の苗木を育てる国連プロジェクトへの参画。牛やヤギなどに苗木を食べられないよう、村人を雇って石垣で囲いをつくらなければならなかった。石垣で囲った苗畑には監視人を置く必要があった。

ネパール人の営林署員と2人で行動するが、覚えたばかりの言葉でその署員に技術指導した。村々を巡回して監視人などの家に泊まる。電話などの通信手段は何もない。電気もないので、夜はろうそくをともしたランプに頼るしかなかった。

「それでも楽しかったですねえ。ネパール人は宴会好きなんです。インドネシア人とちがって酒もぐいぐいやり、歌や踊りも入って退屈しませんでした」

楽しい日々は長続きしない。ネパール山中での協力隊員としての任務は2年で終了するが、半年延長させてもらった。当時のことを回想するなかで、徳丸さんの口からはこんな言葉がもれた。

「ネパールにいた2年半で、一生分歩きましたね。山中で交通手段が何もないので、自分の足に頼るしかなかったものですから」

ハウテック・インドネシアの工場内で。従業員と目が合えば、笑顔を返してくれた(NNA撮影)

■ 協力隊員を伴侶に


将来の伴侶とは協力隊で出会う。同期に入隊し、訓練所の合宿で顔を合わせた。名簿は徳丸さんのすぐ前で、鹿児島県の大口市(現伊佐市)という同郷だったのも何かの縁。看護学校を出たあと東京逓信病院の看護師となり、休職して協力隊に加わった。

2歳年上の彼女はフィリピン要員となり、太平洋戦争時の「バターン死の行進」で有名なマニラ湾の半島地区に派遣される。ベトナム人やラオス人などが中心の難民センターに設けられた病院で働いた。

メールは無論、電話さえ使えなかった時代。ネパールの山中とマニラ湾の海辺の町との交信は手紙しかなかった。途中でなくなってしまうかもしれないと思いながらも、徳丸さんはせっせと手紙を出した。

ネパールから戻った徳丸さんは、とりあえず協力隊の事務局に籍を置く。帰国した隊員に就職をあっせんする窓口で働いた。上部機関の国際協力事業団(現国際協力機構=JICA)で職を見つける道もあったが、あまり気乗りしなかった。

1994年、パレの社宅で子供たちと(徳丸さん提供)

一方、フィリピンから帰国した彼女は、前の職場に戻ったが、1年後に退職する。JICAの外郭団体で海外からの研修生の世話をする仕事に就いていた。

徳丸さんは1年近く勤めるうち、彼女のこともあって「早く身を固めないと」と思うようになる。自分は長男で鹿児島には親がいる。彼女も同郷だったから、できれば九州の会社に就職したい。そう希望していたが、木材関連の会社からの求人募集はほとんどなかった。

そんなところに、「協力隊の経験者を求む」との募集が舞い込む。熊本に本社があった木材会社、東南産業からの求人だった。願ったり叶ったりで、協力隊員の就職を世話する担当者本人が手を挙げる。上司にそのことを打ち明けると、「早く面接に行ってこい」と言われた。

即決採用で、87年8月に入社する。東南産業が協力隊員を雇い入れるのは、ラオスに派遣された先輩に次いで2人目だった。翌年1月、郷里に近い温泉地の霧島で結婚式を挙げる。熊本の会社近くのアパートを新居にするが、数年後に自宅を建てた。

■ 東ジャワの工場へ


東南産業は台湾を手始めに、フィリピンやインドネシアの南洋材、さらにはアフリカまで原木を求めて海外事業を展開してきたが、徳丸さんが入社した当時は、現地政府の丸太輸出規制を受けて付加価値のあるものに移行する時期だった。会社は丸太から製材品や合板、さらには集成材などの現地生産にシフトしていた。集成材とは板材を接着剤で接合した木質材料で、階段やカウンター、収納ケース、テーブルの天板などの家具素材として使われている。

東南産業に入社後、徳丸さんはインドネシアに3回赴任する。いずれもスラバヤを中心とした東ジャワ州だ。

88年10月から5年半をかけた最初の赴任地は、クディリ県パレ。福岡からシンガポール経由でスラバヤに着き、車で西に走って1時間半ぐらいの人口4万人ほどの田舎町だった。

出向先は移民2世の華人が経営する会社で、工場の建設資金は東南産業が負担した。赴任時は工場が完成したばかりのころで、徳丸さんの担当は工場全般の管理。原材料を仕入れて加工し、それを半製品の形で東南産業向けに出荷した。

原料にしていたのは、メルクシパインと呼ばれる松だった。この松は植林後30年は松ヤニが採取できる。そのあと一部は割りばしやつまようじなどになるが、多くは廃棄されていた。工場はそれを買い取り、トライアルで集成材の生産を始めた。

乳児を抱えての家族帯同は許可されず、最初は単身赴任。もともと海外志向の強い奥さんは、長男が7カ月になった時点で「問題が起きても、会社には一切迷惑はかけません」との誓約書をしたため、夫のもとに向かった。

パレの町中に妻帯者用の家と独身寮をつくり、周囲を塀で囲って生活した。

「家内が来たときは、まだ家が仕上がっておらず、カーテンも何もなかった。わたしは日中は仕事に出ますけど、家族はずっと塀の中での暮らしです。お手伝いさんがいましたが、家内は実際、大変だったと思います」

1994年、中ジャワを訪れた奥さんと子供たち(徳丸さん提供)

買い物は近くの市場。華人オーナーの奥さんがつき合ってくれた。月に一度は他の日本人家族と交代でスラバヤに出向き、日本の食材を扱っているスーパーで大量に買い込んで分け合った。南部の漁港でカジキや伊勢エビを買って帰り、オーナーの家族らと一緒に食べるのは楽しみの一つだった。

仕事にも慣れてきた日々の中で、胸中にはいくつかの気がかりが芽生えてくる。その最大のものは子供のことだった。(続く)

【インドネシアに生きる】東ジャワ暮らしは運命的 元青年協力隊員の家族愛(2)

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