【インドネシアに生きる】東ジャワ暮らしは運命的 元青年協力隊員の家族愛(2)

ネパールの山中から戻った青年海外協力隊員は、木材会社に就職する。16年勤めて転職した現在の会社でも、前職同様に主な勤務地はスラバヤを中心とするインドネシアの東ジャワ州だ。通算で20年になる現地暮らし。本人は「運命的なものを感じる」と言うが、異境での仕事と生活には多くの人々、とりわけ家族の支えがあった。新工場を立ち上げて10年。全力投球でやってきたが、ひと区切りついたところで、ハウテック・インドネシアの徳丸憲一さん(56)は、次の一手を思案中だ。(大住昭)

1988年に最初に赴任した東ジャワ州のクディリ県パレの工場も軌道に乗り、生活も次第に落ち着いてくる。奥さんはしばらくして長男を連れて一時帰国し、長女を出産して舞い戻った。

2人の子供はすくすく育つが、父親は彼らのことが心配でならなかった。年に一度は九州に連れて帰るが、何を見ても反応が鈍い。同年齢の日本人の子供に比べて口数が圧倒的に少ないのも気になった。

「自分の仕事の都合でこれまで家族を道連れにしてきたけど、これでいいんだろうか」

そんな自問を繰り返すようになる。

パレには日本人学校がない。長男が小学生になる前までにここから腰を上げよう。これが結論だった。赴任後5年が過ぎてから会社に帰任願を出し、認められた。

94年3月に帰国し、名古屋営業所勤務となる。100人ほどいた営業マンの多くは既存の顧客を回るルート営業が中心だった。東南産業は全国に支店を持っていたが、東京と大阪、それに名古屋についてはそのころ、代理店などを通さない直需営業の直販に注力していた。

木材会社が多い名古屋は、集成材を直販するにはもってこいのマーケット。木工技術に通じ、インドネシアでの現場経験もある徳丸さんは営業でも次第に頭角を現す。単価の高い製品を大量に売り込み、売上高でトップになったこともある。

ところが、客が増えると、クレームも多発する。クレームが出るのは徳丸さんが勤務したパレ工場ではなく、スラバヤ市内にある別の工場だった。その対応に追われていたとき、上司から「こりゃダメだ。もう一回、インドネシアに行ってこい」と言われた。

■ ジャカルタ暴動時の試練


97年3月、製造システムを含めた工場全体の立て直しを図るために再赴任する。家族も一緒。2人の子供はスラバヤの日本人学校に通った。

インドネシアの政情は同年7月に起きたアジア通貨危機を経て急速に悪化し、翌年5月にはジャカルタ暴動が勃発する。これが引き金となり、32年間続いたスハルト長期政権は崩壊するが、インドネシアの現代史を塗り替えたこの激動期は、徳丸さんファミリーにとっても試練の日々だった。

首都で起きた暴動の火の粉は、東に800キロほど離れたスラバヤに飛び火することはなかったが、在留邦人にはインドネシアからの一時退避が勧告された。日本領事館が手配したバスで港に向かい、フェリーで対岸のバリ島に渡ってデンパサール空港から避難のためのチャーター便で帰国する計画だった。

3台のバスは警察の車に先導されてスラバヤから出発する。徳丸さんは手を振りながら家族を見送ったが、この別れには後日談がある。

1998年、スラバヤの自宅で日本人学校に通う子供たちと(徳丸さん提供)

家族はバリ島に着いたものの、「チャーター便に乗るには、運賃を先に払え」と言われる。クレジットカードは使えず、奥さんの手元には当座をしのぐだけの現金しかない。いくら事情を説明してもラチが明かず、ダメの一点張り。2人の子供を連れた奥さんは途方に暮れてしまうが、それでも当面、落ち着けるホテルを探さなければならなかった。

スラバヤに残った徳丸さんは、バリ島から窮状を訴える奥さんの電話に困惑してしまう。本社の海外担当だった上司に相談したところ、上司はさまざまなコネを使い、現地でお金を融通してくれる人物を探し出してくれた。そして家族は数日後、なんとかバリ島をあとにすることができた。

徳丸さんのほうは会社から退避命令を受け、シンガポール経由で先に帰国。福岡空港で家族の帰りを待って合流することができた。

「いざという場合、国や機関は頼りにならないですね。異常事態が発生したら、避難するにせよ残留するにせよ、家族は離れてはいけないということが教訓になりました。わたし自身、工場管理の責任者という立場もあったので、あのときは自分も家族と一緒に避難したいとは言えず、結果として家族を路頭に迷わせてしまった。当時を振り返ると、いまでも後悔とじくじたる思いがします」

■ 退職して人生の充電期


スラバヤ工場はその後、仕事も流れだし、若いスタッフも育ってきたので、徳丸さんの任務は3年で終了する。こんどは東京営業所勤務となり、名古屋と同様に直販に注力するが、1年もたたずに3度目のインドネシア赴任要請があった。

出向先は古巣でもある東ジャワ州のクディリ県パレ市。東南産業の別会社だったが、そこでまた工場の管理業務に就いていたところ、ゴルフ場など経営の多角化を進めていた東南産業本体の業績が悪化。巨額の負債を抱えたまま会社更生法が適用されてしまう。

会社が清算されることになったため、徳丸さんは退職して熊本の自宅に腰を下ろした。失業保険をもらいながらハローワークに通う。奥さんのパート仕事に支えられての日々は情けなかったが、気持ちの上では充実していた。

これまでは工場中心で、会社の経営全般をみるといったことはやってこなかった。自分に足りないものは何かと自問し、経理学校に通って簿記の資格を取る。また、能力開発機構が開いていた職業訓練コースの中から経営学講座を選び、1年間受講する。まさに人生の充電期でもあった。

退職後、体がなまってはいかんと市営のジムに通う。大汗をかいて帰り支度をしているとき、目から光がチカチカと飛ぶ。視界も半分なくなった感じで、ひと晩寝ても頭が痛い。元看護師の奥さんからは「病院に行って!」と命じられる。結果的にこれで命拾いした。

病院での検査の結果、即入院。担当医からあとで告げられた病名は一過性脳虚血発作。脳梗塞の一歩手前ともいえる症状だった。

10日間入院した。病棟では半身不随となった数人の患者と同室になる。何か話そうとしてもろれつが回らず、動きたくても動けない。付き添いの人の手を借りなければ何もできない。そうした様子を目にしながら、「ああ、病気は自分一人だけでなく、家族や他の人まで巻き込んでしまうんだな」と痛感する。退院後は運動もほどほどにして、飲食の量もセーブするようになった。

■ 新工場を立ち上げる


長年インドネシア産の木材と格闘してきたが、帰国してみると、山が荒れ放題になっている。

国有林の復活や国産材の再生に取り組みたくなった。熊本県庁の嘱託職員となってその方面の仕事をしているところに、名古屋営業所時代の客先であった木材会社のハウテックから声がかかった。

56年創業で、岐阜県の保養地である下呂温泉に本社を置くハウテックは当時、中国での事業展開を計画していたが、検討後に中国進出は時期尚早と判断。先にインドネシアに出ることになったが、ついては新しく設ける工場の責任者になってもらえないかとの誘いだった。

2012年、ハウテック・インドネシアの植林地で(徳丸さん提供)

徳丸さん、このとき45歳。奥さんとも相談して誘いを受けることに決めた。2005年7月の入社後は出張ベースで何回もスラバヤに飛び、現地法人のハウテック・インドネシアの工場建設からかかわった。工場はスラバヤから南に60キロほど離れたパスルアン工業団地の一角にあり、同団地には現在、二十数社の日系企業が入居している。

工場は06年4月に完成し、翌月から操業を開始する。最初の従業員は13人。取締役で工場長の徳丸さんは、ハウテック本社の経営陣からは「好きなようにやっていい」と言われていた。その分、重い責任を感じるが、自分が思い描く工場を一からつくってみたいとの思いも強くあった。

従業員の募集にも自分の考えを通す。地元の高校新卒者を優先的に雇用した。日系企業での勤務歴がある者は歓迎するが、地場の企業での職務経験者は採用リストから外した。これまでの経験から、地場企業での職歴がある者ほど従業員教育が難しかったからだ。

時間厳守とあいさつ。これも操業開始時から徳丸さんが堅持したポリシー。取材の途中でオフィスや工場を見学させてもらったが、どの従業員も廊下や通路などで目が合えば、笑顔で軽くおじぎをしてくれる。「いったん工場のゲートに入れば、気持ちよく仕事ができるように、みんなで明るくやろう」とのトップの呼びかけは、工場の隅々まで浸透しているように見受けられた。

■ 操業10年で300人に


立ち上げ1年は製造技術習得のための従業員教育で大わらわ。2~3年目は問題多発で奔走したが、4年目から順調に流れ出した。現在は約300人の従業員を抱え、勤務は2交代制。サイズが決まったドアや収納ボックス、その扉などをつくり、日本のハウテック向けに全量出荷している。

創業以来、実質的な責任者だった徳丸さんは、3年前にハウテック・インドネシアの社長に就任した。

日本のマーケットが人口減少などによってこの先縮小するのは避けられない。新しい販路の開拓が必要との見通しから、4年前にハウテック・トレーディングを設立し、自ら同社の社長になった。インドネシア国内市場や周辺国向け販売を手がける一方、同社を通してインドネシアでの植林事業などを展開することができれば、と考えている。

09年には国際標準化機構による品質認証ISO9001を取得したが、環境認証のISO14000も近く手にする予定だ。

自分の持てる力の集大成として取り組んできた工場は、今年5月に操業10周年を迎えた。工場には徳丸さんのほかに2人の日本人スタッフがいるが、ある程度の業務はインドネシア人スタッフでこなせるようになった。

いつも叱り飛ばしている従業員が想定外の行動に出たり、自分の考えやアイデアを披露してくれたときは素直にうれしい。ずっとやってきてよかったなあと、胸が熱くなる。

機械化が進んだ日本の工場では、製造工程の全般に通じた技術者はいなくなってしまったが、この工場では製造のほかに経営や人事、資材購入、販売のすべてに関与することができる。徳丸さんによると、この工場はいわば日本人スタッフの教育の場でもあるという。

社長室は持たず、オープンスペースで仕事をする。昼食は社員食堂で、一食7,000ルピア(約60円)で済ませる。トップ自ら食べているので、従業員は文句が言えない。ただそのトップ自身、年のせいでもあるのか、10年間食堂に通って最近は少々きつくなった。それで担当者に「もっと質を上げて味をよくしろ」と苦言を呈している。

■ 郷里と家族愛と


子供はすでに成人。長男は東京で働き、長女は以前、インドのチェンナイで日本語学校の補習校に勤務。いまはベトナムのハノイで日系大手の塾に勤め、日本人生徒を教えたり、ベトナム人に日本語を指導している。

奥さんは日本での子育てを終えてからスラバヤに移り、いまは夫婦水入らずの生活だ。奥さんは母親がインドネシア人の子供たちに日本語をボランティアで教えている。

今年5月24日に開かれた操業開始10周年記念式の会場前で。背の高い徳丸さんは後列中央に(徳丸さん提供)

徳丸さんは6年前にゴルフを覚えた。奥さんも最近始め、週末は一緒にゴルフ場に通う。また夫婦で卓球を楽しむ。

「ハッピーといえばそうなんでしょうけど、こちらがゴルフを教えてやっているのに、家内はいちいち口答えするんで、むかっとするときもありますよ。卓球なんて手を出さずにケンカしているようなものです」

笑顔でそう言われて、聞き手のこちらは安心する。夫婦水入らずで、はた目には円満そのものに見えても、水面下ではつねに小競り合いがあり、たまには衝突して噴火する。その繰り返しができるのも、夫婦だからなんだろう。他人であれば、一回の衝突で終わってしまいかねない。

ネパールの山中から帰ってきた元青年海外協力隊員の薩摩隼人が、インドネシアにかかわって28年。スラバヤを中心とする東ジャワ州に実際に住んで足かけ20年になる。

「この先のことはわかりませんけど、インドネシアでの暮らしは、われわれ夫婦にも子供たちにもいい影響を与えてくれたのは確かですね。こうやって、これまで歩いてきた道を振り返ってみると、自分はやっぱり、鹿児島の親を含めて多くの人に支えられてきたんだなという思いが強くします。その中でも、一番は、やっぱり家族ですね」

そう、徳丸さんのストーリーには、家族愛が脈々と流れている。長男と長女が暮らす東京とハノイ、それに鹿児島の郷里で一人暮らしを続ける母親。郷里の鹿屋市輝北町は、環境省から「星空が日本で一番きれいに見える町」とのお墨付きをもらっている。

天体マニアにはたまらない星空の観測スポットのことを語る徳丸さんにとって、郷土と家族は表裏一体なのだろう。そうした思いは、インドネシアの東ジャワ州という異境での長年の暮らしの中で培われてきたものにちがいない。

聞き手のこちら、こよいは久しぶりに日本の家族と実家の兄に電話してやろう。(了)

【インドネシアに生きる】半生を東ジャワの木材業に 元青年協力隊員の家族愛(1)

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