【インドネシアに生きる】末は博士か大臣かを実践 中小企業を率いる論客会長(1)

小柄だが、大きく見える。大言壮語を並べる人ではないが、話題が日本とインドネシアの関係や大企業と中小企業のちがいなどになると、次第に熱を帯び、関西弁が混じったお国言葉の伊予弁になる。三菱電機の駐在員としてインドネシアに来てから35年。技術者と経営者の二足のわらじをはいてきた。この間、酒と一緒に苦汁もいっぱい飲んできたにちがいないが、あらかたは笑い飛ばす。中小企業連合会(SMEJ)の会長、白石康信さん(77)の笑顔には、組織や経営の中で鍛えられた論客としての顔と愛媛のガキ大将だったころの顔が同居している。(大住昭)

白石さんに会うため出向いたのは日本貿易振興機構(JETRO)のジャカルタ事務所。インドネシアに進出した日本の中小企業を中心に約500社の会員企業から成るSMEJは、ここに事務局を置いている。

9月の取材日の前日、SMEJは地場銀行の本店で、日本とインドネシアの企業のビジネスマッチングを目的としたワークショップを開催。参加した120人ほどの関係者を前に、白石さんは「両国のサプライヤー企業が協力して、国際的に競争力のある中小企業をつくろう」と一席ぶったばかりだった。

「よく間違えられるんですけど、うちはJETROさんと同じオフィスなので、その下部組織のように見られるんです。いまから16年前にできたSMEJは、JETROさんとはまったく別の組織ですよ」

そのことはおいおい聞くとして、差し出された名刺を見ると、名前にDrが付いている。聞けば、これは2009年に米ミシガン州バークレー大学から授与された名誉博士号の称号という。

「わたしのような者がどうしてそんな称号をいただけるのかと、不思議に思って大学に問い合わせたんですね。そうすると、ミスター白石は1981年にインドネシアに来てから、7つの新会社を立ち上げて、多くのインドネシア人を育ててきたからだと言われました」

Drの称号を持ちながらも、白石さんの話にはアカデミズムの薫りは少しもない。それよりも俗界の話が中心となるのは、浮世の荒波を乗り越えてきた苦労人で、また百戦錬磨の策士だからでもあろう。インドネシアに来てからの奮闘が評価されたこの称号授与により、ニキビ面のころに抱いた「末は博士か大臣か」の大志はひとまず果たしたようだ。

■ 住友の企業城下町


昭和14年(1939年)、愛媛県今治市生まれ。物心がつく前に新居浜市に引っ越したため、生家の記憶はほとんどないが、親戚のいる今治の桜井町にはよく遊びに行った。瀬戸内海に面した海辺は、「日本の渚(なぎさ)百選」にも選ばれた白砂青松の海岸。夏場は日がな一日、海とたわむれた。

「わたしねえ、海でなら何時間でも浮いてることができますよ。ガキのころから海には強いんで、インドネシアに来てから一時期はダイビングに夢中になりました。潜るためのライセンスも取ったので、モグリじゃないです」

海岸の近くにはメロンやスイカの畑があった。泳いだ帰り道、新居浜から遊びに来た悪ガキは、畑からうまそうなのを一つ二つ失敬するのが常だった。

父親は桜井町の呉服屋のぼんぼん。着物の似合う風流人だったが、兵隊にとられるのを恐れて新居浜の住友金属に職を見つけ、定年まで勤務した。

とら年生まれの母親はしっかり者だった。太平洋戦争も末期になり、町内会では主婦も竹やりを持って軍事訓練に精を出す。

「空の上から爆弾をいっぱい落とされるというのに、竹やり持ってどうするの」

当時は禁句であったそんなセリフを平気で口にする人だった。

昭和20年(1945年)7月に香川県の高松市が米軍機による空襲で火の海になり、「次は松山じゃ、その次は新居浜がやられるぞ」とうわさされたが、翌月に終戦。日本が負けたことは母親から聞いた。

新居浜は戦前から住友グループの企業城下町だった。江戸時代に開坑された別子銅山で繁栄の土台を築き、非鉄金属や産業機械、化学工業など住友グループとその協力企業群によって発展した。

白石さんは4人きょうだいの長男。後年になるが、三菱電機に入った長男は例外中の例外で、一家は新居浜の地元で「住友ファミリー」となる。父親は住友金属、姉の夫は住友化学、妹の夫は住友重機械、そして実弟は住友共同電力にそれぞれ就職した。

2009年7月、米ミシガン州バークレー大学の名誉博士号授与式。前列右端が白石さん。同大学のシンガポール付属施設で(白石さん提供)

■ 新居浜工業の機械科に


小中学校ではガキ大将だった。ケンカに明け暮れ、手下どもをアゴで使う。雑貨屋や駄菓子屋などにめぼしいものが並べられると、「おい、お前、あれ、取ってこい」と子分に命じる。見つかると大目玉を食らった。自分がその場にいなくても、「白石に言われてやった」と、子分はでまかせに言う。家に苦情が届くたび、母親は長男をかばう一方で、きつく説教した。

手に職をつけようと、高校は愛媛県立の新居浜工業に。かつてのガキ大将は将来のことを考えるようになり、機械科で真面目に勉強する。ハートには野心をたぎらせていた。

「末は博士か大臣かって、当時は真剣に考えていましたよ。戦後の高度成長の中で生まれた子供の理想像なんでしょうけど、自分を奮い立たせるような響きがこの言葉にはあったんで、けっこう長く胸に温めていましたね」

3年生になると、就職のことが気になり始める。大阪の松下電器から学校に求人募集があった。担任から勧められるが断った。長男だし、県外に出る気もなし。地元に残って住友のどこかに入れればいいと思っていた。

つぎに三菱電機からの募集。「どうせ通れへんよ。けど、せっかくやから、白石、受けてみろ」と担任に背中を押され、「ほな、受けてみますわ」。

大阪で試験を受け、新居浜に帰ってしばらくすると学校は夏休みになる。両親が家を出払っていたある日、玄関から人を呼ぶ声がする。パンツ一枚、上半身はだかの姿で出ていくと、三菱電機から家庭調査に来た人だった。

しどろもどろで応対し、完全に落ちたと思った。ところが夏休み明けに採用通知が届く。担任は「白石は三菱でええやないか。住友からの求人枠はほかの連中に譲ったらええ」と言い、両親も「県外に出てもええよ」。これで決まった。

■ 三菱電機に入社


1957年春、兵庫県尼崎市の三菱電機伊丹製作所に入る。1年間は教育課に所属。研修に明け暮れ、仕事もしないのに給料はくれる。ええ会社やなあと思った。

伊丹製作所は変圧器などの重電機械の生産が中心だったが、白石さんは53年に独立した無線機製作所(現通信機製作所)のテレビ部門に配属される。

職場には大卒者もいたが、全国から集まった高卒者が主流だった。みんな成績優秀。同期入社の高卒者の一人は研究所に回され、研究論文を書いて博士号を取得。三菱電機を離れて大学教授になった。

このままボケッとしていたら、みんなから置いてけぼりになる。一念奮起して大阪府立大学の夜間部に通う。仕事が終われば、電車で1時間かけて学校に直行した。伊丹の寮に空腹のまま帰るのは夜10時過ぎ。それから晩ご飯をかき込んだが、胃かいようで体調を崩したときもあった。

府立大の夜間部には2年間通ったが、そのうち仕事が忙しくなる。通学は断念するしかなかった。

当時はテレビが白黒からカラーに移行する時期。NHKは60年9月からカラーの本放送を始めるが、4年後に開かれた東京オリンピックはカラー時代への幕開けとなる一大イベントだった。

「経営哲学」の名誉博士号授与式後に奥さんと(白石さん提供)

無線機製作所もカラーテレビの生産に本腰を入れる。白石さんは工場設計チームの一員となり、新工場の建設設計と施工を担当した。

「当時はまだ若造でしたが、社内にはその方面の経験者がいないので、自分でやるしかなかった。なんでも手探りでしたけど、いい経験になりました」

会社は工場設計の段階で「見せる工場」を計画していた。白石さんはそこで「フロアをピンクにしましょう」と提案する。上司ははじめ「アホか、お前」と取り合ってくれなかったが、薄いピンクにして光をいっぱい取り込み、工場内を明るくすればどうかと食い下がると、最後には「よっしゃ、それでいこっ!」と認めてくれた。

■ 京都で所帯を持つ


無線機製作所に10年勤務したあと、京都製作所に異動になる。伊丹にいたときと同様にカラーテレビの新工場設計に従事した。

設計部門のスタッフの多くは大卒者。接客や海外との電話連絡では必要に応じて英語を話す。高卒の白石さんの耳にはうっとりするほどの流ちょうさで。圧倒的な差を少しでも埋めようと英会話教室に通った。

「戦前の尋常小学校を4年で中退した松下幸之助さんは、学歴はあるのに越したことはないけど、肝心なのは学問やと言うてます。田中角栄さんに言わせると、学歴っていうもんは過去の栄光でしかない。学歴があっても勉強せんヤツはあかんということでしょうね」

白石さんは高卒という学歴上のハンディキャップを猛勉強でカバーした。

結婚したのは30歳のとき。京都製作所の品質保証部に勤務していた相手は鳥取出身で7歳年下だった。

奥さんは自分を殺してでも人とのつきあいを大事にするタイプ。社会人になっても愛媛のガキ大将気分が抜けない亭主は、人のことを考えずに突っ走ってしまうところがある。そこで生じた人間関係のもつれやほころびを何度も丸くおさめてくれた。白石さんは「感謝してます」と、奥さんの前ではたぶんはけないセリフを繰り返した。

子供は2人。インドネシアの大学を出た長女はシンガポールで働いたあと結婚し、いまは川崎在住。ハワイの大学を卒業した長男は、いまは日本で働いているが、来年からブラジル勤務の予定。長女と長男にはそれぞれ2人の子供がいる。「孫は合わせて4人なんですけど、全員、男の子なんですよ。できれば女の子がとも思いますけど、こればっかりは仕方ないですね」

■ 海外勤務は39歳から


京都での勤務も10年近くになった78年、「シンガポールにカラーテレビの工場をつくるので赴任せよ」との辞令を受ける。39歳のときだった。

三菱電機はカラーテレビを日本から米国に輸出していたが、急激な円高によって価格競争力をなくしてしまう。それでシンガポールで生産してそれを米国向けに回すことになった。

最初はシンガポール北部のウッドランド。手狭になってからは中央部のブキティマに工場を新設した。

「2カ所を立ち上げたので、大変だったでしょうと言ってくれるけど、そうじゃないんです。用意された立ち上げ資金は十分あるし、自分が思ったようにやれる。数年は利益が出なくても文句は言われない。後任は大変だったでしょうけど、自分らはよかったですよ」

シンガポールで3年が過ぎた81年、こんどはインドネシアへの転勤辞令。通常の場合、いったん日本に帰任して羽を休めてから赴任するが、本社の上司からは「そんな時間はない。すぐに行け!」と命じられた。

1994年9月、三菱電機退職後に移った関連会社の社員家族旅行先で。場所はサファリパーク(白石さん提供)

■ 合弁企業のトップに



ジャカルタに移ってから、三菱電機と華人財閥のリッポーグループによる合弁事業に取り組む。カラーテレビの生産、販売に乗り出した。

白石さんは製造担当の取締役に就任して工場全体の管理責任者になるが、折半出資の合弁事業計画にはもともと反対。本社には三菱電機側の出資比率を51%にするよう強硬に主張する。

ところが、リッポーグループは折半出資の方針を曲げない。白石さんはグループ創業者のモフタル・リアディさんから「われわれは銀行経営には精通しているが、工場経営の経験は浅い。この方面では日本のほうがはるかに進んでいる。工場経営はミスター白石に任せたい」と言われた。

三菱電機にとってインドネシアでは最初の合弁事業となるこの会社、リッポーメルコは、初年度から利益を計上する。年を追って工場を拡張し、カラーテレビを振り出しに冷蔵庫やエアコンなども生産するようになる。白石さんはのちに社長に就任した。

80年代はじめのインドネシアの家電品市場は日本製品が90%以上のシェアを占めていた。三菱電機はインドネシア進出では後発組だったが、それでも製品はつくればつくるだけ売れる時代だった。

「定年で退任するまでの20年、リッポー側ともめたことは一度もなかったですね。総帥のモフタルさんもわたしのことをミスター、ミスターと呼んでくれ、日本式の経営を全面的に信頼してくれていました」

合弁のパートナーから難癖をつけられることはなかったが、東京本社からはあれこれ口出しされる。

「わたしは会社の中で、以前はみなさんの部下でしたけど、いまはインドネシアの現地法人の社長です。みなさんは株主ですが、業務上の細かいことをあれこれ言うのはやめてください。この会社のことで最終的に責任をとるのはわたしなんですから」

正面衝突すれば自分の負け。本社からの出張者との宴席などでは、それとなく遠回しに「口出し無用」と伝えた。(続く)

【インドネシアに生きる】理詰めの中に人情の味 中小企業を率いる論客会長(2)

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