【インドネシアに生きる】理詰めの中に人情の味 中小企業を率いる論客会長(2)

ときにジョークを入れながら、物事を理詰めで話すのは、それだけの経験に裏打ちされているからだろう。会社ではパソコンに触ることはない。はじめは意外に思えても、その理由を聞けば、なるほどなあと深く納得する。そこには名誉博士号を授与された経営哲学以上の豊かな人間味があった。インドネシアに進出した日本の中小企業を率い、ジャカルタの渋滞解決に向けて百年の大計と日本の積極的関与を提唱する白石康信さん(77)は、論客の策士でありながら、亡母のことに話が飛ぶと、途端に涙声になる。そうだ、この人はいつも熱く燃えているのだ。(大住昭)

気丈な母親は、99歳まで生きた。帰国すれば、必ずといってよいほど郷里の愛媛県新居浜市に帰る。母親は白石さんが顔を見せるたびに、「やっちゃん、やっちゃん」と子供のころの呼び名を口にして、「人に後ろ指をさされるような人間になったらあかんよ」などと、繰り返し説教する。いつも同じセリフの小言の数々。まるでテープレコーダーで聞いているようだった。

■ 母親の教え


2年前、実家で母親の面倒をみる弟と電話で、「来年は母ちゃんが100歳になるんで百寿の祝いをしよう」と話していた矢先、風邪をこじらせてそのまま逝ってしまった。

母親のことを回想する白石さんの声が急に止まり、しばしの沈黙のあと、「くくっ」というおえつが漏れた。それから涙声で「どうもいけませんねえ、母親のことを思い出してしまって」。

聞き手も5年前に母親を亡くした。その喪失感は途方もないもので、悲しみに年齢は関係ない。母親は永遠に母親であり、息子はいくつになってもその抱擁の中にいたいものだ。異境で数々の辣腕(らつわん)を振るってきた白石さんの中には、いまだに愛媛のガキ大将で母親にしかられていた少年がすみ着いている。

1981年にジャカルタに赴任した当時、現在のようなマンションはなく、不動産業者が紹介してくれたのは住宅地の大きい家かスラムに近い小さな家。家族と一緒だったので、迷うことなく前者を選んだ。

「応接間なんか息子とキャッチボールができるほど広かった」というその邸宅の家賃は月額2,500米ドル。当時は1米ドル=200円だったから約50万円で、3年分全額前払いという入居条件。本社の担当者は腰を抜かすほど驚いたが、最後は渋々了解してもらった。

「インドネシアは3年のつもりだったのに、気がつけば今年で35年にもなってしまった。はじめからそれがわかっているなら、会社には家賃分だけ負担してもらって、その家は自分で買っていたでしょうね。そうすれば、確実に大もうけできたと思いますけど、実際はそうしなかった。ブレーキをかけたのは、あとで考えると、やっぱり母親の影響でしょうね。自分だけ得するようなことはしたらあかんなどと、耳にたこができるほど小言を聞かされてきましたから」

■ 定年まで帰任辞令なし


ジャカルタに来てからは、ほぼ毎晩のように接客と接待。インドネシア側は白石さんが采配を振るうリッポーグループとの合弁企業、リッポーメルコ1社だが、日本の三菱電機側は生産品目によって事業部が異なった。白石さんは開発や販売の会議に出席するほか、出張者が来れば、そのたびごとに宴席を設けた。

「家で夕食がとれるのなんて、月に3回くらいですよ。あとは毎晩、接客に追われてました」

接待に使ったり使われたりするのは、きまってジャカルタの飲み屋街のブロックMだった。

「わたしのインドネシア語は『ブロックM大学』で習得しました。だから、あんまりきれいじゃない。夜しか使えない代物です」

会社の公用語は英語にする。インドネシア語にすると、社内で問題が起きたときなど、日本人がいくら説明してもインドネシア人従業員に「よく聞き取れなかった」と言われると、それ以上、突っ込むことができない。双方にとって外国語の英語であれば、「言い方が悪かったかもしれんが、聞き方も悪い」と切り返すことができる。白石さんの号令で、スーパーバイザー以上の管理職は、社内では全員、英語で話すことが義務づけられた。

海外駐在員は通常、3~5年で腰を上げるが、白石さんはずっと帰任の対象外。60歳の定年を迎えても辞令はなかった。

「白石のヤツ、一つも言うことを聞かん。あいつは帰さんでええ。もうほっとけ、となったんじゃないかと思います。会社でもあんまり例がないケースでしょうねえ」

インドネシア通貨のルピア切り下げで部品の輸入コストが高くなり、それを製品価格に上乗せすることもあったが、80年代は総じて、行け行けどんどんの拡大路線を突き進んだ。

ところが90年代に入ると、韓国や台湾勢が安売り攻勢で押してくる。それまでインドネシア市場を席巻していた日本勢は、販売価格で太刀打ちできず、減産を余儀なくされる。97年7月に起きたアジア通貨危機と翌年5月のジャカルタ暴動を引き金とする政治危機は、日本勢の多くの息の根を止めてしまった。

リッポーメルコも逆風にさらされる。白石さんは大ナタを振るい、事業立て直しのため奔走するが、時代の大波には勝てなかった。そのうちに定年を迎える。白石さんがリッポーメルコを離れて数年後、同社の家電部門は解散した。

■ SMEJの会長に


定年になったとき、三菱電機の関連会社でテレビ部品メーカーの菱栄エテルナが新しくインドネシアに進出してくる。社長職を引き受けて荒波にかじを取ると同時に、プリント基板の製造販売会社を立ち上げ、その経営を任されたりした。

還暦を節目に日本に引き揚げ、あとは年金で暮らすという人生設計もあったはず。何が白石さんをインドネシアに踏みとどまらせたのか。

「インドネシアに長くいたので、それなりの知識や人脈もある。雇われの身であっても、ここでは自分の意思で仕事ができます。日本に帰ってしばらくはどこかで働くとしても、ほかの人と協調しながら仕事ができるだろうか。そんなことも、ここに残った理由になるかもしれませんね」

関連会社を掛け持ちしながら逆風の中で奮闘していたとき、日本商工会議所のジャカルタ事務所がインドネシアに進出した日本の中小企業向けに開いていたセミナーや懇談会に3回ほど出席する。「ええ会やなあ」と思ったが、同事務所はアジア通貨危機後に撤退した。

取り残された中小企業は困ってしまう。関係者が集まって協議し、新しく組織をつくろうということになった。政治や経済面でどのような異変が起きようとも、日本の中小企業がインドネシアで仕事をするかぎり必要とされる組織。中小企業連合会(SMEJ)はそうした設立趣旨のもと、日本大使館や日本貿易振興機構(JETRO)などに支援され、2000年5月に発足した。

白石さんが会長に選出される。会員企業の関係者から「白石さんは大企業も経験されたし、いまは中小企業の経営者だから両方がわかる。会長をやってください」と要請された。

会則では会長の任期は2年とされているが、発足から現在に至るまで会長はずっと白石さんだ。はじめはそんな気はなく、中心となるメンバーが交代でやればいいと思っていたが、手を挙げる人がいない。それで腹をくくってやっている。

2004年3月、スマトラ島メダンのアルミ工場を見学。SMEJの産業視察旅行で(白石さん提供)

■ 競争力のある中小企業を


発足当初の会員企業は十数社。いまは約500社になり、大企業も数社加入している。最近の加盟企業には外食を含めた食品関連の企業が多いという。

三菱電機やその関連会社にいたときは、経理や品質管理など各部署に担当者がいた。ところが、人材に余裕のない中小企業に移ってからは、雇われ社長であっても自分でやるしかない。SMEJはそれぞれの分野の専門家を呼んで定期的にセミナーを開いているが、会長自らこのセミナーを活用する。とりわけ税務と財務は猛勉強し、不明な点は専門家に聞く。無料で教えてもらった。

白石さんによると、インドネシアに進出した日本の中小企業もグローバル化の荒波にさらされている。これまでは関税障壁に守られてきたが、競争に国境がなくなりつつあるいま、同じ土俵の上で大手も中小企業も戦わなければならなくなった。

このまま手をこまねいて見ているだけだと、遅かれ早かれ淘汰(とうた)されてしまう。日本の中小企業は、とやかく言われても技術はある。一方の地場企業には技術はないが、安くモノをつくることはできる。

この両者が一体となり、「競争力のある中小企業をつくろう」というのが、SMEJが掲げる当面の目標だ。中小企業には人材不足がつきものだが、競争力を上げるためには中間管理職のレベルアップを図らなければならない。

「そう言っても、SMEJは色男。カネと力はなかりけりというのが現実です。そこでJETROなど日本の関連機関と一緒になって、中小企業の中間管理職を育成する計画を具体化しているところです」

■ 渋滞は百年の大計で


「見晴らしのいい街だなあ」。これが35年前にジャカルタに来た当時の第一印象だった。現在のような高層ビルは皆無。中心部を走るスディルマン通り沿いの建物といえば、ヒルトンホテルとラトゥプラザのほかに数えるほど。渋滞などまったくなく、車はすいすい流れていた。

ところがいまや、状況は一変。林立する高層ビルの足元の路上は、朝な夕な車とバイクでごった返す。大渋滞が改善される兆しは一向にない。白石さんによると、現在工事中の地下鉄が完成しても根本的な解決にはならず、このままいけばジャカルタの道路はいずれふん詰まりになってしまうという。

「この1,000万人都市の渋滞は、天災でなく人災です。だから人間の英知で解決できるはず。そのためには百年の大計を立てて抜本的な大改造が必要です。それができるのは日本でしょう。日本以外にありますか」

そう力説する白石さんには、長年暮らしたジャカルタはもはや「わが街」であり、日々深刻化する渋滞を人ごとのようには見ておられない。首都大改造の百年の大計を説く論客には、「日本の責任で、日本が主体的に取り組まなければ」という気持ちが人一倍強いようだ。

2004年3月、SMEJのスマトラ島産業視察旅行で立ち寄ったレストランで。白石さんは後方のネクタイ姿(白石さん提供)

毎朝3時過ぎに起床。メールをチェックして必要なものには返信する。現在も関係している会社には10時ごろに出勤する。自分用のパソコンはあるが、会社ではあえて触らない。

「わたしが自分の部屋でパソコンをやっていると、部下はみんな、ハッピーなんですよ。だからやらない。時間があるときはいつも現場に足を向けます。部下から上がってくる経営資料には必ず目を通します」

いくらパソコンの画面とにらめっこしても、経営の実態はつかみにくい。ところが表やグラフの形で整理された資料にじっくり目を通していると、実態の輪郭が浮かび上がってくる。こちらが見ようと努めるから、数字の裏側まで読めるようになる。何か問題が起きているなと察知して、現場に入って聞いてみると、想像通りのことが進行していることがよくある。

■ 目標はエージシュート


生産性をどう上げるか。品質向上のためには何をすべきか。製造業に従事する中小企業であるかぎり、1回話せば用が足りるといったものではない。現場に出向いて従業員と顔をつき合わせ、口酸っぱく言い続けなくてはならないと、白石さんは自分に言い聞かせている。

「この前帰国したとき、ちょっと病院で診てもらったんですけど、医者はなぜかパソコンの画面ばかり見て、わたしの顔は見ないんです。そんなことで、わたしの体調がわかりますかねえ。パソコンを見るのが医者の仕事であるなら、患者は電話で用がすみます。わざわざ病院に来る必要もない。このことは会社経営にも一脈通じるものがあると思いましたね」

2004年3月、スマトラ島シバヤック山麓の硫黄温泉で。SMEJ会員企業のメンバーと(白石さん提供)

以前は「ブロックM大学」の夜間部によく通ったが、いまは授業料免除であっても行きたくない。もはや卒業した。それより何よりゴルフだ。空いた時間はゴルフがしたい。

いつまでインドネシアにいるのか。こう問われたときは「大好きなゴルフができなくなるときまで」と答えるようにしている。

ゴルフは京都時代に覚えたが、先輩から「うまくなりたいのなら、8トントラックで3台分のボールを打て」と言われた。それで夏場は夜明けと同時に近くの学校のグラウンドに行き、そこで毎朝、一人黙々と練習した。

シンガポールで腕を上げ、ジャカルタに来てからは年間130日ほどグリーンに出た時期もある。郊外にあるジャゴラウィのゴルフ場では、アマチュアなら誰しもあこがれるパープレイを達成した。

いまは週に1.5回のペース。前はシングルだった腕も、このところのスコアは100オーバー。これじゃいかんとジムに通い、大汗をかく日々が続く。目標はエージシュート。自分の年齢以下の打数で18ホールを回ることだ。

「トシをとっても筋肉は訓練したら回復しますよ。自分から鍛えないと、エージシュートはとてもできません。80歳になるまであと3年ある。それまでに達成したいですね」

白石さんはそういって笑顔を見せたが、その顔には愛媛のガキ大将から始まり、「為せば成る」を実行してきた人生の航跡のようなものがうっすらと浮かんでいた。(完)

【インドネシアに生きる】末は博士か大臣かを実践 中小企業を率いる論客会長(1)

コンテンツ提供:共同通信グループ 株式会社エヌ・エヌ・エー www.nna.jp

Logo
JapanGov
JapanGov
Twitter Feed
Instagram
Youtube