【インドネシアに生きる】職業はお絵描き兼雑用係 バティックの現場から(1)

二言目には、ゆるゆる、いい加減、超テキトーといったたぐいの言葉が出てくる。本人いわく「これまでずるずると生きてきた、典型的な流され系」。自分の意志で道を切り開いてきたといった、たいそうな実感はない。人との出会いを重ねた結果として道はつながり、チレボンというジャワ島北部の港町にたどりついた。そこで巡り合ったパートナーとともに小さなバティック工房を開き、職人たちとともに汗を流してきた賀集由美子さん(56)は「お絵描き兼雑用係」と自称する。湿り気皆無でユーモアたっぷりの話から、インドネシアの地方都市に生きる邦人女性の姿とバティック産業のいまが垣間見える。(大住昭)

1990年のいつだったか、賀集さんはジャカルタから中部ジャワの古都、ジョクジャカルタ行きの夜行列車に乗った。ひと寝入りして夜中に目覚めると、どこかの駅に停車している。寝ぼけまなこで駅名を見ると、チレボンとあった。下車せずにそのまま目的地に向かったが、旅の途中駅でしかなかったチレボンにその後、こんなに長く居着いてしまうことになろうとは、当時は想像もしなかった。

バティックが取り持つ縁というべきか、ある工房経営者のめいっ子と仲良くなった。チレボンに通ううちに人生のパートナーとなる華人と出会う。そのころはバンドン工科大学の大学院生だったが、結婚してからはチレボンに建てた家で小さなバティック工房「スタジオ・パチェ」をオープンする。

いいものをつくりたい。ただその一念だった。しかし、ろうけつ染めの手描きバティックは自分一人ではどうにもならない。作業はいわばリレー方式だ。ろう付けや染色などを担当する職人の手から手に渡されて、一枚の布が仕上がる。その職人の人数をそろえるのに心を砕き、職人の機嫌をとりながら職場を盛り上げてきた。

インドネシアのバティックは、2009年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)から無形文化遺産に認定された。バティック業者にとっては大いなる朗報だが、賀集さんに言わせると、この認定は現場に混乱を引き起こしてしまった。単なるバティック柄でしかないプリントものが、伝統的な技法でつくられるものを押しのけて、わが物顔で店の売り場を占領するようになった。

らんまんさと真面目さとユーモアがほどよく混じり合った感じ。人からバティック工房のオーナーなどと紹介されると、「オーナーって誰のこと?」と首をかしげてしまう。自分からは「お絵描き兼雑用係」と言うようにしている。

インドネシアの人口30万人の地方都市に腰を下ろしつつ、IT機器を自在に操り、世界や時代と並走している。そんな風に形容すると、本人は「並走しているなんて、そんなたいそうな。地方の暮らしでヒマなだけですけど」と言うにちがいない。

バティックという伝統工芸の現場に身を置きながら、一時はポケモンGOにはまり、欧州のサッカー観戦に熱を入れる。そんな賀集さんだが、この人の根っこはやはり日本にある。チレボンに落ち着くまでの旅路を振り返ってみよう。

■ 関東育ちの関西人


昭和35年(1960年)、横浜生まれ。5歳離れた姉がいる。いや、正確には「いた」になるが、このことはあとに回そう。

生後まもなく藤沢に引っ越した。小学校6年のとき、父親の仕事の関係で千葉に移る。落ち着いたのは成田空港の南に位置する八街(やちまた)市。落花生の産地として有名だ。父親は技術系のサラリーマン、母親は専業主婦だった。

「賀集さんっていう名字、あまり見かけないですね」

「うちは両親ともに兵庫県の淡路島にルーツがあるんですよ。徳島県の鳴門に近くて、いまは南あわじ市になってるんですけど、そこに賀集という地区がいまもあります」

藤沢から一緒に暮らした祖父母も関西人だったせいか、関東住まいでありながら家の中は関西弁ワールド。野球といえば、もちろん阪神タイガースだった。

明治から昭和にかけて神戸で活躍した賀集喜一郎は、父方の曽祖父で、やはり淡路島の出身。海事関係の書籍の品ぞろえでは日本一を誇った神戸元町の海文堂書店の創業者で、大正末期、折からの海運ブームに乗り、大金をはたいて海事大辞典を出版する。ところが売れ行き不振で大赤字になり、書店は人手にわたってしまう。100年近い歴史を持つその書店が3年前に閉店するときは、神戸を中心に大騒ぎになった。

父親から聞いた話によると、喜一郎の一族には変人が多かった。コーヒー店などをやり始めた者もいたが、当時は街の人に「怪しい商売をやっている」とうわさされたという。

賀集さんは後年、インドネシアでバティック工房を開くが、事情を知らない親戚筋から見れば、これも「怪しい商売」になるのかもしれない。「由美ちゃんにはあっち系の血が流れている」と言われた。

■ 学校嫌いの女子高生


姉は親の言うことをよく聞くお利口さん。そのおかげというべきか、妹は姉のうしろでやりたい放題に育つ。小学生のときからユースホステルに泊まったり、休みになれば、親戚のいる関西に一人でよく出かけた。奈良で仏像巡りをしたり、宇高連絡船で渡った先の香川県内をうろついたこともある。

父親とちがって理数系はさっぱり。子供のころから絵を描くのは大好きで、手先が器用な母親の後ろ姿を見てきたせいか、セーターや手提げカバンなどをつくることに興味を持った。そのころから左利きで、いまもバティックの下絵は左手で描く。

千葉の地元の中学校から県立の成東高校に進む。学校が嫌いな女子高生だった。家から電車で2駅目の学校には、雨が降ったり風の強い日はずる休み。気の合う女友だちと電車で房総を一周したりした。もちろんキセル乗車。成東高校には当時、制服というものがなかったので、どこの学校の生徒なのかバレることはなかった。銚子電鉄に乗って無人駅で降り、日がな一日遊んだこともあった。

話を聞いているうちに、意外な人の名前を耳にした。日本食品の卸会社ますやの社長で、1995年からインドネシア各地で日本食材のスーパーマーケット「パパイヤ」を展開する市原和雄さんだ。

「わたし、市原君と同じ高校で学年が一緒なんですよ。市原君がD組で、わたしはE組でした。リーダー格で応援団長だった市原君が、ジャカルタで事業をやってることをあとで知ったときはびっくりしましたね。同級生といっても、市原君はインドネシアでちゃんとしたビジネスをやってるけど、わたしは超テキトーです」

■ バティックとの出会い


高校3年のとき、結婚して間がない姉を自宅での突然死で亡くした。ショックで寝込みがちの母親に代わって家事を手伝う。高校を卒業すると、デザイン関係の専門学校に入った。

ところが、学校ではやることなすことが細かすぎる。グラフィックデザインなども自分の性分に合わないように思えた。染織だったら、細かいことは言われず、もっとゆるくて楽しいんじゃないか。それで専門学校は1年で辞め、東京造形大学に入ってテキスタイルデザインを勉強した。

造形大学のキャンパスは現在は八王子にあるが、当時は高尾にあった。中央線の西荻窪駅近くにアパートを借りて通ったが、高校への通学とちがい、その足取りは重くなかった。学費と生活費は親に出してもらう。防災マップを色えんぴつで塗るバイトなどもした。

大学の図書館には染織関係の本が並んでいた。その中に民族工芸の研究では第一人者の吉本忍さんが著した「インドネシア染織大系」があった。上下巻に分かれて重量感のあるその大著のページをめくるたび、「わあ、すごいなあ、いいなあ」と胸が熱くなる。この本がバティックとの最初の出会いであった。関西に行ったときは大阪吹田の国立民族学博物館を訪れ、インドネシア産の実物を見入ったりした。

大学を卒業してからデザイン関係の会社に入ったが、入社してまもなく、自分の協調性のなさに気づく。長続きせずに辞め、デザイン学校で本の装丁(ブックバインディング)を教えた。フリーターに近い講師で、空いている時間は刺しゅう作家の助手などをした。

1998年、コマールさんと東ジャワ州の村を訪れ、藍染め職人と一緒に(賀集さん提供)

この間、83年と87年にバリ島を訪れる。現地の空気を吸い、本場の染織を目にしたことによってインドネシアへの関心はさらに高まる。それで上智大学が社会人向けに開いていたインドネシア語の夜間講座に通った。

「通うというより、正直に言えば、終わってからの飲み会が楽しかったから足を向けたというべきでしょうね。たまたまバティックからインドネシアに関心を持ったけど、別のものでインドや中東なんかでもよかった。ロンドンにゴールドスミスというテキスタイルアートを教えるカレッジがあって、そこには行きたかったですね。だけど、ネットがなかった時代なので、入学手続きなんかがわからなかった」

■ 青春の「黒歴史」


若いときは語学オタクで、あちらこちらの言葉に挑戦した。英語はいまではさびついてしまったが、当時はそこそこに話した。スペイン語は文法で、タイ語は文字で挫折する。韓国語もやったが、一番とっつきやすかったのはインドネシア語だった。実際にやってみると、話し言葉はともかく、書き言葉は奥が深くて難しかったが。

「このことはわたしの黒歴史で、人に笑われるのであんまり話したくないんですけど、30を過ぎてからこちらに来るまでの間、インドネシア語やインドネシア料理を教えたりしていました」

聞き手のこちら、時代と並走できていないので、「黒歴史」の意味がわからない。あとで聞くと、アニメの作品の中で使われた用語で、なかったことにしたい過去を指すらしい。

当時はアジアの語学ブームでエスニック料理がはやっていた。インドネシア語については、語学学校で人に教えながら、自分も勉強しようといった気持ちだった。「黒歴史」にしたいのは、まだまだ未熟だったのに教壇に立ったりしてといった気持ちがいまだに残るからという。

東京や千葉の市川でインドネシア語を教えながら、年に1~2回は染織好きの友だちとジャワ島に向かう。バティックの産地を回るなかでチレボンも訪れた。自分なりにジャワ島のバティックを比較すると、チレボンでつくられているバティックは文様も色も多彩で、おもしろく感じられた。

チレボンはバンドンを州都とする西ジャワ州に属し、オランダによる統治時代からバティックの産地として知られる。ジャカルタからは車で約4時間の道のりだ。

■ バンドン工科大学へ


将来の伴侶となるコマールさんと出会ったのは、チレボンの商人宿風のホテルの受付。そのホテルはコマールさんの家族で経営していたが、賀集さんの目に映ったコマールさんは「その辺にいる、気のいい、ただのおっちゃん」。食事に連れていってくれたり、いろいろ面倒をみてくれた。

チレボン生まれのコマールさんは福建系の華人。高が漢字の名字だが、福建語も北京語も話せない代わりに、インドネシア語はもちろん、ジャワ語やスンダ語も自在に話し、英語やオランダ語にも通じている。

身分証明書では40年生まれとなっているが、本人は35年生まれと言う。実姉などの話を合わせると、後者のほうが正しいようだ。賀集さんとは25歳の年齢差になる。

コマールさんが保証人となってチレボンの大学に1年間籍を置いた。それから西ジャワ州で染織を研究できる大学を探していると、バンドン工科大学が浮上する。オランダ時代の20年に設立された理工系の名門校で、初代大統領のスカルノはこの大学を26年に卒業している。

ダメ元で問い合わせると、日本の大学で取った単位を英文で提出すれば同校の大学院に無試験で入学できるという。95年に芸術学部デザイン学科の修士課程に入り、デザインを専攻した。

バンドン工科大学に通っていたころ、コマールさん(左端)や友人らと。スカルノ初代大統領の胸像の前で(賀集さん提供)

大学院生は週に2、3日出席すればいいので、チレボンとバンドンを行ったり来たりの学生生活となる。バンドンで学びながら、バティックが地場産業のチレボンでそれを実践できればいいと思っていた。

「バリ島旅行から始まってジャワ島に腰を下ろすんですが、どうしてそうなったのかと言えば、日本での生活がいやになったからでしょうね。どこかに逃げ場がほしかったというのが正直なところです。だから、こちらで染織を勉強したいという気はあっても、それで生きていこうといった強い覚悟のようなものはなかったですね」

気ままな大学院生をやっていた98年の春、体調を崩して一時帰国する。前年にアジア通貨危機の暴風に見舞われたインドネシアでは、その頃から治安が次第に悪化し、5月になってジャカルタ暴動という形で爆発する。インドネシア語ができる賀集さんは日本のテレビ局にかり出され、ニュースセンターで缶詰め状態になった。(続く)