【インドネシアに生きる】チレボンで工房立ち上げ バティックの現場から(2)

1998年の5月にインドネシアの首都を炎上させたジャカルタ暴動。賀集由美子さん(56)はそのとき、たまたま帰国中だった。暴動はお茶の間のテレビで知ったのではない。テレビ局のニュースセンターに詰めていた。情報を発信する側にいるという奇妙な体験をしたあと、パートナーが待つジャワ島のチレボンに戻る。縁あってこの港町の片隅でバティック工房をオープンするが、はじめは試練の連続。いいものをつくりたい。その一念だったが、職人を家族扱いしながら伝統の技法を守る手描きバティックの現場にも、時代の荒波は容赦なく押し寄せている。(大住昭)

籍を置いていたバンドン工科大学の大学院は通常2年で修了するが、卒業するまでに3年半かかった。「ぐずぐずした理由の一つ」と本人が言うのがジャカルタ暴動だ。

98年の4月に体調を崩して一時帰国していたが、5月に入ると、政治情勢は一気に流動化する。日本のテレビ局はインドネシア語ができる人材の確保に乗り出したが、賀集さんにはテレビ朝日から声がかかった。

インドネシア語の同時通訳はできないが、字幕起こしならできる。それなりのバイト料になると聞き、テレ朝のニュースセンターで四六時中スタンバイする。

5月14日に起きたジャカルタ暴動で日本人を含めた外国人の避難ラッシュが始まるが、混乱をきわめた情勢はその後、刻一刻と変化する。32年間権勢を振るってきたスハルト大統領が21日に辞任を発表するまでの1週間は、インドネシア現代史のまさに激変期でもあった。

ニュースセンターに詰めながらも、着替えは必要。用意してくれたハイヤーで千葉の実家に帰る途中、携帯電話が鳴る。「すみませーん、もう少ししたら国防大臣の演説が始まります。戻ってきてくださーい」と言われた。

「インドネシア語の通訳や翻訳があれほど必要とされたのは、あのジャカルタ暴動のときが最初で最後だったんじゃないですかねえ」

状況はあれよあれよと変わるが、現地から送られてくる映像はそうでもない。道ばたにはナシゴレン(焼きめし)売りの屋台や人々の姿が映っている。いつも目にする光景。放火や略奪があった表通りでは大騒ぎしていても、裏通りにある庶民の暮らしに変わりはない。賀集さんは映像を見ながら、「まあ、大丈夫かな」と思った。

6月に入って情勢が落ち着いてくると、テレ朝のバイトはお役御免になる。それでインドネシアに戻った。

1999年、バンドン工科大学の修士課程を修了。コマールさんと記念撮影(賀集さん提供)

■「やくざはおもしろい」


西ジャワ州のチレボンでは、周辺の町でいくつか焼き打ちがあったが、チレボン市内は平穏そのものだったようだ。暴動が起きることなど想定外だった賀集さんは当初、5月20日にインドネシアに戻る予定だったが、世情にうといパートナーのコマールさんは「ジャカルタまで迎えに行くよ」と電話で言う。「危ないから、来ないで!」と絶叫した。

賀集さんによると、コマールさんの顔が黒っぽいのはジャワ人の血が少し入っているから。

コマールさんはインドネシア華人でありながら、中国人社会にどっぷりとつからず、ジャワ人の友だちをたくさん持っていた。

インドネシア語で「プレマン」というやくざの何人かとも知り合いだった。家にふらっと立ち寄れば、コマールさんはなにがしかの金をつかませる。賀集さんが「あげちゃダメ」と言っても取り合わない。その土地に生きるための、持ちつ持たれつの関係。やくざは何かあれば駆けつけてくれた。

「プレマンはいい人じゃないんだけど、人はいい。人間味があって、おもしろいですよ」

バンドン工科大学は99年に卒業する。修士論文は「天然染料を使ったかすり織りの過去、現在、未来」。東ヌサトゥンガラ州のレンバタ島の織物を主に取り上げた。

レンバタ島は伝統捕鯨の島としても有名で、日本のテレビ局の取材に通訳として同行したこともある。その後、修士論文の調査で2カ月ほど滞在。天然染料を調べるために現地をくまなく歩いた。

■ 夫婦ともにアッパラパー


修士論文はすべてインドネシア語で書かれている。

「インドネシア語の読み書き能力で言うと、あのころがピークだったでしょうね。地元の学生たちとも普通にしゃべっていましたから。最近はトシのせいか、新しい単語はなかなか覚えられません。いま、ここの生活ではインドネシア語オンリーですけど、工房で職人たちと話すのは100の単語を使い回しているだけです。色は赤を使うとか、これはダメとか」

インドネシア語での会話はまったく問題ない。ジャワ語になると、聞き取れるものの、話す方はブロークンのお笑いレベル。「カリマンタンから来たチナ(中国人)なのか」とよく聞かれるという。

2000年に結婚する。夫のコマールさんとは年齢差はあるが、一緒にいて楽しかった。賀集さんが考えるところを具体化してくれた。チレボンでは名うてのバティック・デザイナーで、のちに「わたしの師匠」と慕うカトゥラさんに引き合わせてくれたのもコマールさんだった。

「経済観念というのがほとんどないのはわたしと同じで、お金もないのにアッパラパーです。人間的にはハチャメチャなところもあるけど、彼の心根にひかれたんでしょうかねえ」

賀集さんによると、港町に住むチレボン人は概して開放的で、物言いもストレートだ。荒っぽいことでも定評があるが、この地で生まれ育ったコマールさんも、そうした気質を多分に受け継いでいるという。

ただ、敏感で神経質なところもある。スハルト大統領が健在だったころ、奥さんのティエン夫人が亡くなった。コマールさんは、さあ大変。半旗を掲げないと共産党員に見られてしまう。ところが肝心の旗がない。賀集さんはそのあわてようを目にしたとき、インドネシアに生きる華人の生き様のようなものを垣間見た感じがした。

■ スタジオ・パチェ開業


バンドン工科大学に通っていた1996年ぐらいからチレボンの借家で同居していたが、結婚に先立って自分たちの家を建てようということになった。方々を物色していたところ、コマールさんとは日頃からつきあいのあるやくざがバナナ林の空き地を見つけてきた。そこに現在の家を建てるが、その工事がまた大変だった。

バナナ林は低地だったので、その上に家を建てるとなれば、大量の土を入れて土台を固めなければならない。作業員は毎朝やってくるものの、しょっちゅう手を休めてサボっている。コマールさんは作業現場で仁王立ちになり、怒鳴りまくる。賀集さんは毎日その姿を見ながら、「我慢強いなあ、この人は」と感心した。

「テレ朝からいただいたお金は、土地代と土代であらかたなくなりました。とりあえず自分たちが住む家を建てることが先決で、ここを住居兼バティックの工房にするなんていう考えはなかったです。最初からそんな構想があれば、もうちょっとましな造りにしていたと思います」

2002年、スタジオ・パチェの工房で(賀集さん提供)

バティックは趣味にとどめ、インドネシア語の通訳や翻訳を仕事にしようかと、ぼんやり考えていたが、商売好きのコマールさんは家が完成すると、たちまち商魂が燃え始める。

平日は別のバティック工房で働いている職人を連れてきて、日曜日だけ家で働いてもらう。賀集さん自身、これまで学んできた染織の知識やカトゥラさんに教えられたバティックの技法を実践してみようと、その気になった。2001年に家の裏庭を使った小さい工房「スタジオ・パチェ」を立ち上げ、職人たちを陣頭指揮する。

■ ペンギンのぺん子ちゃん


「パチェ」は玄関先の庭で大きくなったヤエヤマアオキを意味するジャワ語で、樹皮から赤い染料が取れる。店名は赤が好きな賀集さんが命名したが、周囲からは「ヘンな名前」と首をかしげられた。きょうだいの多いコマールさんは末っ子。インドネシア語で末っ子は「ボントット」と言う。「いっそのこと、バティック・ボントットにしたら」という声もあったが、賀集さんは「いやだよ、そんなの」とはねつけて自分を通した。

作業はリレー方式だ。下絵描きから蝋(ろう)付け、染色などを受け持つ職人の手から手に渡されて一枚の布が完成する。こうした工程のため、一定数の職人を確保できなければ仕事にならない。

「ここのオーナーなんだから、そんなことまで」と言われる作業にも手を出す。いいものをつくりたい。この気持ちでいっぱいだった。最初は化学染料を使わず、天然染料にこだわったのも、そんな気持ちの表れだった。

スタジオ・パチェには、賀集さん夫婦の二人三脚を補強するおつぼね的存在のウィジャさんがいた。コマールさんは当局との折衝や労務管理が主な役回り。いわば大目付だったが、ウィジャさんはその下にいて職人たちの作業全般を仕切った。

「ウィジャはものすごい働き者。彼女がいなかったら、この工房は立ち行かなかったでしょうね。職人に当たり散らすんですが、作業を割り振る能力はなかった。最後はだめんず(ダメ男)と一緒になり、最悪の形で工房を離れてしまいました」

賀集さんは自分の身の回りで起きた騒動をおもしろく回想するが、立ち上げ当時はそんな心の余裕はなかったにちがいない。いいものをつくろうと、何事にも真面目に取り組む。ところが周囲はその真剣さを理解してくれない。大泣きしたり、ストレスで倒れたりしたこともあった。

そのうちにジャカルタやバリ島の店から声がかかり、スタジオ・パチェでつくられたバティックの小物類などが店頭に並べられるようになった。動物を擬人化した絵柄が好評だったため、ペンギンの絵を入れるなど、賀集さんの遊び心を作品の隅々に投影させた。ジャカルタで発行されていた日本語情報誌「南極星」(現「+62」)に注目され、ペンギンは「ペン子ちゃん」と命名された。

■ 職人のなり手に異変


インドネシア語で職人は「プンラジン」と言う。このプンラジン、日本での職人のイメージとは大きく異なる。プンラジンの多くは貧しい家庭で育ち、学歴もほとんどない。ほかの人がやっていて自分にもできる手仕事がバティックだっただけ。日本なら年季や腕などがモノを言うが、ここでは職人としての誇りよりもまず日当であり、肝心なのは生活であることは昔もいまも変わらない。

チレボンにはトゥルスミと呼ばれる地区を中心に工房がたくさんある。バティック職人の多くもこの地区の出身者だが、時代の流れの中で職人のなり手に異変が起きている。

トゥルスミ地区ではひと昔前、一家の子供は8人ぐらいいた。大きくなると、男の子の多くは家具職人、女の子はバティック職人になるのが普通だった。子供が結婚しても、いまでは子供は1人か2人しか産まない。女の子に生まれて高校に進めば、もはや職人になることはない。

2002年、工房内でバティック布を広げるコマールさん(右端)と職人(賀集さん提供)

スタジオ・パチェでは毎年、中卒を2~3人採用してきた。インドネシア人は概して手先が器用だ。中卒の若い子でも一から教えれば、それなりにこなしてくれる。仕込みながら一人前の職人に育ててきたが、ここ数年は中卒の採用が途絶えている。

一定数の職人を確保できたとしても、途中で辞めてジャカルタなどに出て行き、工場の労働者になる子もいる。海外に出稼ぎにいくのもここ数年のブームだ。サウジアラビアなど中東は危険だから人気がない。それよりもアジアで、多くは台湾やシンガポールなどに流れるという。

賀集さんがスタジオ・パチェを始めたころは、バティック工房にとってはいい時代の最後だった。給料は安くても、おいしいご飯を出して病院の費用などを負担してやれば、職人は家族のようにずっとついてきた。

当時は工房間で、職人の賃金について暗黙の了解があったが、いまは高給をえさにした職人の引き抜き合戦が横行している。ジャカルタの業者がチレボンに工房をつくり、職人をかっさらうことなども珍しいことではなくなった。

スタジオ・パチェでも腕のいい職人が引き抜かれた。新しい職場でやらされたのは、早描きの作業。それに慣れてしまうと仕事が雑になり、以前のような繊細な線などは描けなくなってしまう。

それでもその職人には高給が魅力。長年培ってきた自分の技量やそれで仕上げた作品への誇りなどはない。それより何より、稼いだお金でどれだけのものが買えるか。関心はこちらにある。

時代の荒波がチレボンの小さな工房にも押し寄せる中で、コマールさんは瞬間湯沸かし器のような怒鳴り役、賀集さんはなだめ役と作業の進行役を務めながら、懸命に工房運営のかじを取ってきた。(続く)