【インドネシアに生きる】伝統と流行のはざまで バティックの現場から(3)

バティック職人のなり手が少なくなる一方で、バティック本来のろうけつ染めとは無縁のプリントものが市場で大手を振りつつある。賀集由美子さん(56)が主宰するチレボンの工房はこれまで、伝統的な手描きの技法一筋でやってきたが、流行という名の逆風にさらされながら、「バティックのこの先」を模索中だ。賀集さんと自作のバティックキャラクター、ぺん子ちゃんたちとは一心同体。肩ひじを張らない、ゆるゆるで超テキトーな旅はこれからも続く。(大住昭)

2016年8月、カトゥラ師匠の工房で。師匠作のバティック布を手にする師弟(NNA撮影)

インドネシアのバティックは、2009年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)から無形文化遺産に認定された。バティック業者にとっては朗報だが、賀集さんはこの認定を「うれしいけど、ビミョー」と形容する。

ユネスコの認定は、ろうけつ染めを基本とする手描きと型押しのバティック技法が対象だが、一般には技法よりもバティック柄が認められたようにとらえられがちだ。そうすると、伝統的な技法とは縁もゆかりもなく、大量生産が可能なバティック柄のプリントも入ってしまう。

実際のところ、デザインがよければ、遠目にはろうけつ染めかプリントかは見分けにくい。工房で働く職人も含めてインドネシアの女性の多くが着ているのはプリントだが、一般の日本人は「みんなバティックだ、すごい!」と錯覚する。

インドネシア人自体、そんな区別や細かいことは気にしない。バティック柄であればプリントであっても満足している。そもそもからして、手描きの服などは高額すぎて手が出ない。ものにもよるが、プリントだと一着4万ルピア(約350円)で買えても、手描きになると400万ルピアへと約100倍に跳ね上がる。インドネシアの庶民はプリントもので満足せざるをえないのが実情だ。

「正直にいえば、わたし自身、プリントが好きなんですね。使いやすいので。ただプリントも無形文化遺産の一つであるかのように勘違いされると、ちょっとなあ、という気持ちになります。だけど、この国の人が認定で喜んでいるのなら、よそ者の自分がガタガタ言う筋合いのものではないでしょうね」

■ カトゥラ師匠の嘆き


チレボンのバティック産地の中心であるトゥルスミでは、ユネスコの認定後、ブームに乗って雨後の筍(たけのこ)のように店舗が設けられた。これは自分で自分の首を絞めるようなもので、人材難にいっそうの油を注ぐ結果となった。

その決定打ともいえるのが、10年近く前にオープンした「バティック・トゥルスミ」だ。バティックや手工芸品の総合デパートといった趣があり、レストランやマッサージ店なども併設している。広々とした駐車場には、ジャワ島各地からの観光客を乗せた大型バスが次から次に発着している。

この大型店にやってくる客の多くは、店頭に並べられているものが地元のチレボンでつくられたものであれ、ジョクジャカルタやバリ島産のものであれ、さほどのこだわりはない。また手描きや型押しではなく、バティック柄でさえあれば安いプリントものを喜んで買っていく。

賀集さんを取材した翌日、師匠と仰ぐカトゥラさん(64)の工房に連れて行ってもらった。カトゥラさんは高名なバティックデザイナーで、伝統技法のすべてに精通している。ユネスコの認定をどう思うかと聞いたところ、こんな答えが返ってきた。

「世界的に認められたのはうれしかった。けど、その結果としてバティック柄のプリントがわが物顔をするようになったのは悲しいね」

師匠と弟子の見方は一致するが、伝統に重きを置く師匠からみると、弟子が描くペンギンを擬人化した絵などは理解の域を超える。師匠はたまにスタジオ・パチェに立ち寄ると、ため息をつきながら、「ここのペンギンは忙しいね」と批評する。破門同然の不肖の弟子であっても、インドネシア風のゆるさを保った長年の師弟関係は揺るがない。日本では見られそうにないつながりだ。

■ 開業時の自分は卒業


子供はいない。夫のコマールさんは、以前は商売熱心で、瞬間湯沸かし器のように職人たちを怒鳴りつけていたが、いまでは賀集さんに言わせると、「いい感じの好々爺(や)になって、みんなの愛されキャラです」。

夫に認知症はないが、妻は介護スタッフ同然で、早朝の散歩にはつき合っている。工房の運営は妻任せで、夫は時間がくると、商売で飼育している小鳥の世話に出かける日々だ。

スタジオ・パチェがオープンして間もない02年に朝日新聞の取材を受ける。その記事は「女たちの地球物語」と題して日曜版に大きく掲載された。記事を読んだ母親の友だちからは「由美ちゃん、インドネシアでがんばってるわね」と言われる。その印象が強いものだから、賀集さんはいまも「がんばる由美ちゃん」だ。

「あれから10年以上が過ぎて、工房を取り巻く環境は激変しました。それに合わせてわたしも変わってきたので、『がんばる由美ちゃん』はもう卒業しました」

手作業だから大量生産はできない。手描きバティックのいい小物を量産しようと思っても、職人の数が減っているので難しくなってきた。職人の補充が止まってしまうと、工房は存続の危機に陥る。

職人の数はピーク時から半減した。いまは20人ほどでやっているが、その顔ぶれの中には開業当初から一緒の職人もいる。結婚していったん辞め、育児を終えてから戻ってきた職人もいる。中卒で入った若い子は5~6年働いていまは20歳ぐらいになるが、ここ数年はその下の世代が補充できていない。

「以前は誰かが辞めそうな気配があれば、それだけでストレスがたまったんですが、いまではもう、吹っ切れたというか、なるようにしかならないと割り切れるようになりましたね。あと1年ぐらいはいまのメンバーで持つと思いますけど、その先のことはわかりません。職人に工房でなくて自分の家でやってもらうことも考えられるし、近所の主婦を集めてバティック塾を開いてもいい。食堂をやってもいいかなあ」

もともとは趣味で始めたバティック。終生の仕事にするといった覚悟のようなものはなく、乗りかかった船でやってきた。ただその一方で、いいものをつくりたいとの願望はいまも強くある。ハッピーなのは、これはと思う下絵が出来上がったとき。それが職人たちのリレー作業で品物の形になっていく。現場でそれを見ることができるのは楽しい。

■ 1日ちがいの両親の死


15年は15回も帰国した。

「千葉の両親が1日ちがいで死にましてね。葬式を一緒にしたんですけど、お坊さんがお経代を10万円割り引いてくれました」

湿り気皆無で、あっけらかんと言う。ショックと悲しみから立ち直るまでに、人知れず、涙はいやというほど流してきたのだろう。

母親は上顎(がく)がん。手術後は末期がん患者のホスピスにいた。父親は重度のパーキンソン病で別の病院に入院していた。

11月12日に母親が逝った。一人娘としてはこのことを父親に伝えなければならない。夫婦仲がよかったので、言えばショック死するかもしれないと思ったが、そのことを伝える前に、父親は翌日、息を引き取った。父親は享年87歳、母親は83歳だった。

「由美ちゃんに負担をかけないように、お母さんがお父さんを連れて行ったのよ」

悲しみを紛らすためか、親戚からはこういうふうに言われた。

チレボンに帰ってこのことをインドネシア人に話すと、「アドゥー!」と言って驚かれ、「アツアツね」と感動される。持ち帰った両親の遺骨の一部は灰にして、船からジャワ海にまいた。

15年は両親の看病や葬儀後の整理などで不在が続いたため、自分がいなくても仕事は回るように、経理や労務管理を含めて縫製のスタッフに任せるようになった。遠くにいても、スカイプやラインで指示することができる。

「任せるようになってラクになりました。ここの人は借金したり、ツケにすることに抵抗がないんですね。仕事が始まる朝っぱらから『お金、貸して』と言われると、気分が悪い。それでお金は経理役のスタッフに預けて、みんなで管理するようにさせているんです」

■ 日本は住みづらい


インドネシアのきらいな点について聞くと、賀集さんはしばし思案。そのあと出てきた言葉は日本のいやな点だった。

「必要以上の気の使い方や接客の過剰サービスが目につきますねえ。それでいて、なんとなくきゅうくつで、しらじらしいんですよ。インドネシアに帰ってくると、人間性がむき出しのままの人が多い。空港で荷物があるときはポーターに声をかけるんですけど、この前なんかポーターに『いくら出す?』と聞かれた。『おばさん、ケチ』って言われたこともあります。その時々で腹は立つけど、日本とちがってストレートなんでかえって気持ちいいし、なんだか楽しいですよ」

南国のけだるい空気を全身に吸い込んできた賀集さんには、混雑する東京の駅周辺の光景はもはや異境だ。誰も本心から笑っておらず、誰もがみな気むずかしそうに見える。

末期がんの母親の手術は大がかりなものだった。病院の家族待合室に腰を下ろしていたが、他の病室の家族も含め、誰も口を開こうとしない。重くて張り詰めた空気の中にずっといる。賀集さんは「手術もこわいけど、このどんよりした沈黙のほうがもっとこわい」と思った。ここがインドネシアだったら、「何の手術なの」から始まって、延々とおしゃべりが続くのに。そのほうが気分的にラクなのに、と思わないではいられなかった。

賀集さんの経験によると、日本の医者は手術の前にリスクについて語らないではいられない。聞いている側が「もういいですよ、それで死んだら仕方ないじゃないですか」とまで思うほどに。ところがインドネシアの医者の多くはあまり語らず、説明もしない。

「接客サービスなんかについても言えますけど、インドネシアと日本を足して2で割ったら、ちょうどいい感じになるんじゃないでしょうかねえ」

バティック・キャラクターのぺん子ちゃん(賀集さん提供)

■ 余生は欧州でサッカー三昧?


スタジオ・パチェの入り口近くの壁にはペンギンの「ぺん子ちゃん」の絵が描かれている。玄関を入ると、すぐ手前に大きな作業机があり、その奥にここでつくられた手描きバティックの品々が並べられている。

「狭いでしょう。なにしろここは、わたしの仕事部屋兼玄関先ショップを兼用していますから。工房は家の裏手にあります」

賀集さんはここでバティックの下絵を紙に描いているが、ひと息入れるのに外に出る必要はない。作業机の前方に大型スクリーンのテレビが鎮座しているからだ。画面はずっとヨーロッパのサッカーを流し続けている。「サッカー、好きなんですか」とやぼな質問をした。

「好きを通り越していますね。父親がアマチュアのサッカーの審判員だったので、子供のときによく連れて行ってもらいました。わたしのサッカー好きは近所では有名で、新聞スタンドの売り子なんか、わたしの顔を見ると、新聞か雑誌を持って追いかけてきます。『これ読んだあ?』と言いながら」

ひいきのチームは、プレミアリーグのマンチェスター・シティ。一番好きな選手は、バルセロナのフォワードのルイス・スアレス。ウルグアイ出身のストライカーで、賀集さんによると、移動中はいつも手にマテ茶を持っているという。

以前は夜更かししていると、コマールさんに「ダメだよ」と注意された。ところが、東日本大震災が起きると、テレビにくぎづけになる。深夜までNHKのニュースを廃人のように見続けたが、コマールさんはその姿をふびんに思ったのか、有料のサッカー・チャンネルをつけてもいいよと言ってくれた。それからは病みつきになった。

サッカー観戦にはまったのは、ツイッターの影響も大きい。おもしろい書き込みが怒濤(どとう)のように流れてくる。これはサッカーだけでなく、日本のプロ野球も同じ。関西人の血を引く阪神ファンである手前、タイガースがらみの書き込みには目を通さないではいられない。

こうしたこともあって、賀集さんの作品には擬人化したぺん子ちゃんのほか、サッカーや野球関連の絵柄が多い。チレボンの伝統的なものからは逸脱しているように見受けられるが、ゆるさとひらめきやときめきに重きを置く賀集さんとしてはこれでいいのだろう。伝統は伝統として技法に取り入れながらも、伝統に縛られない発想をより重視する。第一、作り手の自分が楽しくなければ、作品に輝きがなくなってしまう。

「コマールがいるかぎり、わたしもチレボンから離れないでしょう。けど、その先はどうかなあ。イングランドでサッカーの観戦ざんまい。あっ、こんな余生もいいですねえ」

こう言って大笑いするバティック作家は、伝統と流行のはざまに身を置きながら、この先を思案する。分身でもあるぺん子ちゃんとの旅はまだまだ続きそうだ。(完)