【インドネシアに生きる】元商社マンは楽観主義者 付かず離れず46年(1)

入った大学で気まぐれに選択した語学と、たまたま入社した商社。その延長線上で出会った人々との縁から、長年インドネシアとともに歩んできた。1970年代はじめは商社マンとして国家プロジェクトにかかわり、後年になって出向したメーカーでは98年のジャカルタ暴動も経験する。その後の民主化のうねりで政治は安定してきたが、内原正司さん(75)は「もう後戻りすることはない。この国はこれからますますよくなるでしょう」と予測する。定年後も帰国せず、これまでインドネシアに付かず離れずに寄り添ってきた。楽観的な見方には、そんな人生行路も投影されているようだ。(大住昭)

「記事にされるような人間でも人生でもないですから」

開口一番、こう言われた。本人によると、たいしたことはしておらず、ふつうに生きてきただけ。しかし、元商社マンはビジネスの最前線で何度も修羅場をくぐってきたはず。その経験を買われてか、インドネシアで定年を迎えても腰を上げることなく、転職を重ねていまも現役で働く。

2008年5月からの勤務先は、物流サービス会社の住商グローバル・ロジスティクスのインドネシア法人。仕事上では規律や決められた手順を重視して自説を曲げず、ビシッと筋を通すが、一人の生活者に戻れば、インドネシアの人や社会がかもすゆるさやあいまいさを甘受する。そんな生き方のベースは、生まれ育った大阪で培養されたようだ。

■大阪のガキ大将

大阪のど真ん中、大阪城に近い南区西賑町(現中央区谷町)の長屋風商店街で産声を上げた。血縁者はみな商人。西陣で成功した親戚もいたが、紙製の玩具などをつくっていた父親は、きまじめで職人かたぎ。商才がなく何度も倒産し、借金取りから逃げ回っていた。

4人きょうだいの長男。家は貧乏だったが、夫婦仲がよかった両親には厳しくしつけられながらも、大事に育てられた。しかし、勉強はそっちのけで、学校から帰れば遊んでばかり。ガキ大将でならし、腕っ節も強かった。小学校と中学校時代、ケンカして負けたのはそれぞれ1回だけ。相手が強すぎたからという。

府立の大手前高校に通い、卒業後は働くつもりだったが、商売で成功した叔父に「これからの時代、大学は出とかなあかん」と諭される。1年浪人して大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)に入った。

英語はどうも好きになれない。近所にインドネシア語を教える先生がいたことや、物知りの友だちから「インドネシアっていう国は、この先、いけるんとちゃうかなあ」と言われたことがきっかけで、インドネシア語を専攻した。

「とりあえず選んだだけで、インドネシアに行きたいとかそれで仕事がしたいといった気持ちは、まったくなかったです」

そのせいか、インドネシア語の習得には熱が入らなかった。大学時代はそれよりも野球漬け。語学よりも野球に力を入れたために、あとで苦労することになるが、野球で鍛えた運動神経は後年、インドネシアに来てから還暦手前までやったソフトボールで開花した。

■商売する会社員に

両親や親戚筋の薫陶もあって、卒業すれば「商売する会社員」になろうと、就職先は商社を希望する。現在の双日の前身で、あこがれていた岩井産業に入社した。

配属先の運輸部門はおもしろかった。当時の上司や同僚らとはいまもつき合い、内原さんが大阪に戻ったときはいつも酒宴になる。数年前には彼らとバリ島で合流し、旧交を温めた。

ところが、異動した繊維部門は業務の内容が細かすぎて肌に合わず、上司ともうまくいかない。また、その頃になると日商との合併もあって職場に元気がないように感じられた。

岩井産業が1968年に日商と合併してから半年後に退職する。商売人として独立しようと、友人が経営するカバン店に勤めたが、長続きしなかった。

「いまから思うと20代の自分は落ちこぼれのような気がしますね。何かに闘志を燃やすといった感じではなかったし、仕事も辞めてしまったし」

そのうち住友商事の人材募集を耳にして、履歴書をしたためた。住商に採用されると、東京勤務と告げられる。北新地で酔ったついでに占い師にみてもらうと、「北のほうへ行くんだけはやめとき」と言われる。東京は北とちがうのかと突っ込むと、その占い師は「あっちは東や。問題ない」と胸を張った。

個人史の中に分け入っていると、一部の人の不思議な能力に驚くことがある。遠い過去の記憶をたどる中で、「いつのことか」と聞けば、何年ばかりか、何月何日まですらすらと出てくる。聞き手のこちらは何年すらもぼやけているのに、何月何日まで口にされると、「この人のアタマの構造はどうなっているのだろう」と思わずにはいられない。

内原さんもそんな一人だ。住商の東京本社には69年11月10日に入社した。配属先は重化学機械本部。当時はプラント部とは言わなかった。

アサハン・プロジェクトに従事中、何度も訪れたスマトラ島のトバ湖を地図で指す。トバ湖は世界最大のカルデラ湖で、琵琶湖の1.6倍あるという(NNA撮影)

■ジャカルタはまっ暗

入社後2年ほどして部長に飲みに連れていってもらった。帰りのタクシーの車中、酔いの勢いもあって「どこかヨソの国に行かせてください」と懇願する。すると、ひと月後、インドネシア行きを命じられた。

71年8月31日、羽田を早朝に飛びだった日本航空のダグラス10は、香港とシンガポールを経由し、夜遅くジャカルタのクマヨラン空港に着いた。内原さん、30歳のときだ。

「ジャカルタはインドネシアの首都なのに、上空から見下ろすと、まっ暗でしたね。飛行機が高度を下げて明かりを照らしたので、そこがもう海ではなくて陸地であることがわかりました」

ジャカルタの北郊にあって海に近いこの空港は、いまはもうない。空港跡地は見本市会場やゴルフ場などになっている。

最初に降り立った頃は、国全体の電力不足もあって空港はどこも薄暗かった。荷物が流れてくるのを待っていると、丁子(ちょうじ)タバコの強烈な煙が漂ってくる。吐き気がするほど甘ったるい匂いだった。

受け取った荷物にはポーターが群がり、勝手に運んでいく。「大丈夫かなあ」と心配したが、それでも好奇心のかたまり。目にするもの、耳にするもの、すべてが新鮮だった。

住商が中心となって受注したタンジュンプリオクでの火力発電所プロジェクトに従事する。現場は港に近かった。

内原さんによると、当時のジャカルタでは、インドネシアの国営電力PLNが供給する総発電量は9万キロワット止まりだった。日本のインドネシア向け円借款で新たに建設される発電所の第3基と第4基は、それぞれ5万キロワットの発電能力を持つ。ところが、遮断や負荷などのテストをすると、ジャカルタ中で停電が起こり、街の明かりが消えてしまう。そのたびに新聞でたたかれた。「スミトモのせいだ」と。

当時のスタミ工業大臣はしょっちゅう現場に姿をみせた。指揮棒を振りながら、「おれがやってやる」と息巻いたこともある。スハルト大統領も2回ほど視察に訪れた。

■コタが街の中心

内原さんら日本からの出向組は、建設現場に近い寮に住み込む。狭い部屋だったが、プロジェクトのリーダーである住商の社員はそれでも恵まれていたので、文句は言えなかった。

関西電力から出向していたのは元海軍中尉で、太平洋戦争時のミッドウェー海戦の生き残り。空母の赤城が米軍機の猛攻で炎上、撃沈されるシーンを肉眼に焼き付けていた。口を開けば海戦の話になるが、一段落すると、「はい、きょうはここまで」と打ち切ってしまう。

翌日はその続きから始まるが、内原さんはその元海軍中尉をよく思っていなかった。現場の食堂には梅干しなどの漬物が用意されていたが、それがなくなったときなど、元中尉は「誰がとったんだ!」と騒ぎ出す。そんな姿を何度も目にするうちに、海戦の話にも耳を貸さなくなってしまったが、いまになって「もっと聞いておけばよかった」と思う。

71年当時、ジャカルタで目立った建物と言えば、タムリン通りのホテル・インドネシアだけで、それも10階建ての最初の1棟のみ。30階建てのウィスマ・ヌサンタラ・ビルは建設中で、車が少なかったせいか道路は閑散としていた。

その頃のジャカルタの中心地はチャイナタウンが広がるコタ地区で、住友商事をはじめ日系企業の事務所はコタにあった。旧大和銀行が58年に合弁で開業した邦銀第一号のプルダニア銀行(現りそなプルダニア銀行)も、コタから始まった。

内原さんは寮と建設現場を往復していたが、月に一度はコタのガジャマダプラザの向かいにあった住商の事務所に顔を出す。そんなときはいつも、チャイナタウンで飲み食いした。

事業報告などで一時帰国したとき、連合赤軍によるあさま山荘事件がテレビで大きく伝えられ、街角にはちあきなおみが歌う「喝采」が流れていたのを覚えている。

■アサハン事業に参画

2年の出向期間はまたたく間に過ぎて、いったん帰国。実妹の友だちの妹と見合いして結婚する。大阪出身の奥さんは7歳年下。千葉で所帯を持ち、娘と息子を授かった。

2016年7月、産業別懇談会の会員とアサハン・アルミニウム社を訪問。トバ湖畔のホテルで開かれた晩さん会でスピーチする(内原さん提供)

しばらくすると、アルミニウム生産のアサハン・プロジェクトに住商では第一号の現場社員として派遣される。スマトラ島のトバ湖からマラッカ海峡に流れ込むアサハン川の水力資源を利用して、アルミを精錬、鋳造する一大プロジェクトで、日本勢ではグループ企業の住友化学が幹事会社となった。

はじめは単身で赴任。メダンに腰を下ろし、必要に応じて現場に通った。スマトラ島最大の都市であるメダンの現在の人口は210万人になるが、40年前は約100万人。アサハン・プロジェクトに従事する日本人の数は、そのメダンでピーク時には1,500人に膨らんだ。

そのうち家族が合流する。内原さんは仕事一筋で、家事や子供のことなどはすべて奥さん任せ。2歳9カ月の娘と9カ月の息子を抱えての異境暮らしで奥さんは奮闘するが、2年を過ぎた頃、体調に異変が生じる。病院の検査で胃がんと診断される。子供と一緒に帰国し、手術を受けて快方に向かうが、インドネシアにはその後、戻らなかった。内原さんが年に2回帰国して家族のもとに帰るばかりとなった。

アサハン・プロジェクトには4年間かかわった。帰任してもそのフォローに追われたが、84年になって住商のジャカルタ事務所に異動する。砂糖や液化天然ガスなどのプラント輸出に取り組んだ。

内原さんによると、プラントビジネスはヤクザな商売という。長期にわたって人とカネをつぎ込んでも、土壇場でひっくり返ることもある。オール・オア・ナッシングの世界だ。

「メディアには商社ボロもうけとたたかれたりしますが、商社がプラントビジネスで大変なリスクを背負っていることや、苦心した末の成功はその報償でもあることは、誰も声を大にして言いませんね。大手の商社だから当然だといったふうに見られがちです」

■「そうせえや」で残留

88年に帰国するが、インドネシア勤務が長かったものだから、日本の職場には席がないような疎外感にとらわれる。上司には機会があるたびに「外に出してほしい」と頼んでいた。その外とはもちろんインドネシアだが、そのうちプラント部から電子磁性材部に異動してチャンス到来。住友特殊金属と組んで、モーターなどに使われるフェライト磁石をインドネシアで生産するプロジェクトが始動し、住商の代表として90年に赴任した。

「このプロジェクトは、事業の許認可を含めてまったく動いていなかった。コンサルタントもいないので、インドネシア人にあれこれ指示しながら手探りで進めました」

住友特殊金属はその後、日立金属の傘下に入るが、内原さんはその前の95年に東芝などとの合弁事業の立ち上げ要員として出向する。ジャカルタ郊外の工業団地でカラーテレビのブラウン管を生産する事業で、東芝ディスプレー・ディバイシスが新会社の社名だった。

立ち上げにめどがついて帰任する時期になって、「住商銅事件」が起きる。当時の非鉄金属部長が銅の不正取引で巨額の損失を出した事件だ。多くの早期退職者が出るが、内原さんはインドネシアに未練があった。

本社の人事部に出向き、「会社のためだけでなく、東芝にとっても、また自分にとってもインドネシアに残るのがベストと思います」と主張し、勤務の継続を強く希望する。その回答は「これは人事部が決めることではなく、本部長の管轄です」。軽く突っぱねられた。

そこで本部長の常務に直訴すると、「そうせえや」と言われる。賛否どちらか不明の回答だったが、「そうさせていただきます」と返答。そのままインドネシアに戻り、東芝での勤務を続けた。

当時はスハルト長期政権の末期。98年5月に起きたジャカルタ暴動を引き金にスハルト大統領は失脚するが、現地にとどまった内原さんにとって、この時期は緊急事態への対応が試されたときでもあった。(続く)