【インドネシアに生きる】インドネシアは奥深い 付かず離れず46年(2)

1997年の7月にタイから始まったアジア通貨危機は、たちまちのうちにインドネシアのルピアを直撃するが、これが翌年5月に起きたジャカルタ暴動とそれに続くスハルト退陣への導火線となる。仕事上では自説を曲げず、筋を通してきた内原正司さん(75)だが、首都を炎上させた暴動とその後の事態の進展は、これまでのインドネシア経験が試されるまたとない機会となった。住友商事からの出向先で定年を迎えるが、そのまま帰国する人生を選ばず、インドネシアに寄り添って生きる道を選択する。(大住昭)

98年5月14日にジャカルタで同時多発的に暴動が発生し、主に華人経営の銀行や商店、ショッピングセンターなどが襲われて放火炎上する。主要な通りは暴徒の群れに占拠され、首都は無法都市になってしまった。

郊外に位置する東芝工場の周辺は平穏そのものだったが、暴動発生の知らせを受けるや、内原さんは従業員全員を退社させる。それを見届けてからの帰路、街のほうぼうで火の手が上がり、黒こげになったバイクや窓ガラスの破片などが路上に散乱しているのが見えた。

日本大使館の発表によると、当時のインドネシア在住日本人は1万4,000人。このうち約9,000人がジャカルタ住まいだった。暴動当日は首都警察が夜間外出自粛令を発令したため、日本人学校の子供たちは帰宅できず、校内で不安な一夜を過ごした。

夜が明けると、日本人の避難ラッシュが始まる。日本でも大きく取り上げられたが、踏みとどまった駐在員も多くいた。内原さんもその一人だった。

■暴動翌日に街を偵察

暴動翌日は街の状況を自分の目で確かめるため、最大の被害に遭ったコタ地区に向かう。チャイナタウンが広がるコタへ行くのはインドネシア人運転手もいやがったが、どやしつけながら焼けこげた建物が並び、煙がくすぶる通りを走らせた。

コタで目にしたのは、惨状よりも片づけられた跡だった。それを確認しながら、内原さんは「この暴動は、暴徒らを泳がした軍のやらせではないか。その背景にあるのは軍内部の対立ではないか」と思うようになった。

会社の指示でヒルトンホテルに一時避難したものの、華人の知り合いから「ホテルなんて、一番危ないよ」と電話で言われ、この助言に従う。ホテルをあとにしていまも住み続ける南ジャカルタのクバヨランの寮に帰ったが、周辺に暴徒の気配はない。愛犬を連れて様子見に出かけた。

それからは寮にいて、テレビなどから入ってくる最新情報を東芝の本部に電話で伝え続ける。暴動から1週間後の21日、スハルト大統領が退陣を発表した。

「なんだか芝居を見ているような感じでしたねえ。あれだけ権勢を誇ってきた大統領が自分から辞めるなんて、ほんとかなあと、テレビの実況中継を見ながら思いました」

インドネシアの地図からモルッカ諸島の北に位置するモロタイ島を指す。2016年9月に旅好き仲間と訪れた(NNA撮影)

東芝からは後日、感謝状をもらったが、内原さんはこの暴動をきっかけに緊急事態への対処マニュアル作成の必要性を痛感する。会社から帰国命令を受けても道路は混乱し、空港に着いてもパニック状態。トイレにも行けず水も飲めずにひたすら帰国便を待つしかないが、飛行機の座席数は限られている。また緊急時は米ドルや日本円は用をなさず、インドネシア通貨のルピアしか使えないこともわかった。

■黒田さんの紹介で転職

住商社員として60歳の定年は東芝勤務時に迎えた。嘱託として2年間延長されるが、いよいよ腰を上げようと思ったとき、内原さんにとっては相談役でもある東レ・インドネシアの黒田憲一さんから「セコムに行かないか」と声をかけられた。この連載特集【インドネシアに生きる】にも登場していただいた講道館7段の黒田さんは、警察学校で長年、柔道を指導してきたため、警察関係者らと太いパイプを持っていた。

警備会社のセコムで3年、武田薬品で2年勤務したあと、現在の住商グローバル・ロジスティクスのインドネシア法人(SGLI)に移った。いずれも黒田さんの口利きだが、仲介役の黒田さんにすれば、長年のつき合いから内原さんに全幅の信頼を置いているのだろう。

この間、勤務先が変わっても一貫してクバヨランの寮に住み続けている。内原さんによると、80年代は日本人駐在員向けのマンションは皆無に近かった。日系の商社などは大きめの家を借り受けるか購入し、そこを社員寮にしていた。

各部屋に風呂やトイレがあり、食事から洗濯、掃除など、すべてお手伝いさんがやってくれる。信頼できる警備員がいるので防犯も心配ない。内原さんは長年の寮暮らしとその便利さに慣れたせいか、マンションには移ろうと思わない。

同じ屋根の下で暮らした寮生とは、帰国しても深いつき合いができる。寮ではまた、マンションと違って犬や猫を飼うことも可能だ。内原さんにはいま、愛犬のゴールデン・レトリバー、小次郎が遊び相手にいる。

■パトロールが日課に

総合物流サービス会社のSGLIは94年創業。ジャカルタの東に位置するブカシ地区の工業団地内にある本社は、原材料や部品の調達から在庫管理、配送までのサプライチェーンを展開しており、ほかにカラワンなど周辺4カ所に保管業務が中心の倉庫と事務所がある。インドネシア人従業員は450人、日本人は8人が勤務している。

内原さんは、朝は4時半起き。朝食後は軽く体操する。お手伝いさんがつくってくれた昼の弁当持参で6時前に寮を出て、7時ごろ職場に着く。

8時の始業時間までにメールをチェックするほか、業務リポートなどを一気にやってしまう。始業前にあらかた片づけるのは長年の習慣になってしまった。特定の担当部署や現場作業はなく、総務や人事労務で問題が起きれば出番になる。

欠かさないのはパトロールだ。保税倉庫を含めて作業場全体を見て回る。従業員一人一人の顔つきや表情をチェックしながら、必要に応じて声をかける。倉庫内ではフォークリフトが頻繁に動いていて危険なため、「通路にはモノを置くな」と注意しているが、口酸っぱく言わないと、すぐにたががゆるんでしまう。

「うちの従業員にしてみれば、うるさいのが来たと思っているでしょうね。ゴミひとつ落ちていても許しませんから」

用意してくれたヘルメットをかぶり、クツを履き替えてパトロールに同行すると、ニコニコ顔で内原さんにあいさつする従業員もいる。その一人のフォークリフト運転士は、聞けば以前の労組委員長だった。

内原さんはこのパトロールを1日に1.5~2回する。歩数計を見ると、1回につき約5,000歩になる。午後5時に終業しても、会社から寮までの帰路はいつも渋滞。車の中で2時間近く身動きがとれないため、日々のパトロールはゴルフと同様、健康にいいと思っている。

■ディシプリンを口酸っぱく

主として総務人事畑を歩いてきた内原さんによると、インドネシア人の最大の弱点はディシプリンの希薄さにある。決められたルールや手順を個々人が正しく守る習慣をつける。つまり、しつけがしっかりしていれば、会社が発展するだけでなく、現在の政局の安定をバネにして国も急成長することができる。しかし、ディシプリンの欠如がそれにブレーキをかけている。

たとえば、職場での5S運動。これは整理、整頓、清掃、清潔、しつけの5項目を指すが、順守させるのは並大抵のことではない。

「口ではみんな5Sが大事と言いますが、整理、整頓の2Sすらできないのが実情です。声を大にして時間厳守を唱えても、なかなか守れない。ここでは朝礼もいい加減だったので、時間をかけてひとつひとつ改善してきました」

倉庫内の作業場をパトロールする。一周すれば約5,000歩。必要に応じて声をかける(NNA撮影)

インドネシア語のキラキラは「だいたい」や「おおよそ」を意味する。何事も曖昧模糊(もこ)としたいい加減さがまかり通る中にあって、内原さんは「キラキラだからこそ、キラキラであってはいけない。キラキラに同化してしまえば流されるだけ。それではここに居続ける意義がなくなってしまう」と、自分をいましめながらやってきた。

だから毎日、腹を立て、気づいた点はメモに書き込む。インドネシア人社員に「ひと言注意」は意味をなさず、笑顔で水に流されがちだ。毎週開いているミーティングにしても、前回話し合った問題点のほとんどは棚上げになってしまう。そうさせないためにも、繰り返し議題にして徹底させる。辛抱強くやっていかなければ、いつの間にか立ち消えになり、以前のキラキラに戻ってしまう。

いつも怒っているが、それでもそんなキラキラ風土に長居してきた。内原さんはそのことについて、自分ではあまり感じないが、インドネシアの空気が合っているのではないかと思う。

「こちらは遠慮なしにズバズバ言うでしょう。それを聞く側のインドネシア人にしてみれば、それが少しでも当たっていると、『ウチハラさん、またガミガミ怒鳴るけど、この人はインドネシアが好きなんだろうな』と、なんとなくわかるんでしょうね」

■歴代大統領を酷評

インドネシアではこの「なんとなく」はくせ者であり、潤滑油でもある。内原さんによると、スハルト大統領が失脚して以降の民主化は、インドネシアの内部からわき起こったものではなく、国際通貨基金(IMF)からの支援をもとに、なんとなくそんな流れになった。だから激しい政争や革命劇は起きようもなかった。

民主化のうねりの中でインドネシアでは断続的に憲法の改正が行われた。大統領の任期を最長で2期10年に制限したことや、直接選挙で大統領を選ぶようにしたことなどは、従来の政治制度を大きく変えるものであり、内原さんは高く評価している。

ただ、歴代の大統領については辛口だ。メガワティは「何も言わず、何もしない大統領」で、10年の長期政権だったユドヨノについては「何も決めず、何もしない大統領」。深刻さを増すジャカルタの道路渋滞だけを見ても、彼らの無策は一目瞭然ではないかという。

それでもジャカルタでは、渋滞に起因した暴動は起こらず、社会も暮らしもなんとなく回っている。仕事の上ではいい加減さを嫌う内原さんによると、インドネシアには「ノー」がない。物事を突き進めると、多くの場合、最後には「イエス」となる。

「相手がごちゃごちゃ言っても、こちらがなんやかや言い返すと、しまいにはもうええよとなりがちですね。欧米式の合理主義が通用しにくい風土なんです。だからおもしろいんですよ、この国は。奥が深いですね」

スハルト政権の崩壊後に政治が流動化する中で、インドネシアのリスクがクローズアップされる時期もあったが、内原さんは当時もいまも「この国にそんなものはない」と言い切る。欧米が手を引こうとも、日本はインドネシアを見放さない、いや見放すことはできないと信じているからだ。国レベルの運命共同体意識は、奥深い国、インドネシアにはまった自分の人生行路とも無関係ではなさそうだ。

■家族は千葉の流山に

32歳で所帯を持ったが、これまで家族と生活したのは10年ほど。アサハン・プロジェクトに従事していたときは、奥さんと幼い子供2人がメダンで一緒だったが、奥さんが体調を崩して帰国してからは単身赴任が続いている。

家族の住まいは、最初は千葉の検見川。長女は家を出て社会人となり、長男は結婚して県内の流山市に落ち着いた。「オヤジもおふくろも、もう年なんだからうちの近くに住めばいい」と数年前に言われる。

内原さんとしては、ついのすみかは大阪にしたい。大阪なら地名を聞けばすぐわかるし、友だちも大勢いる。ところが奥さんは大阪出身でも千葉に長年居ついてしまい、友だちも多くできた。

大阪か千葉かの二者択一。多数決で2人の孫も含めた5人が選んだ千葉に決まり、奥さんは流山の長男一家の近くに移り住む。内原さんが帰国すれば荷物を下ろすのも、流山のマンションだ。

しかし、自宅に帰っても1週間もてばいいほう。ジャカルタでは食事から掃除、洗濯まで、すべてお手伝いさんがやってくれる。一人暮らしで気ままにやってきたから、「トイレはきれいに使って、ドアは閉めて」などの小言を聞かされると、次第に腰を上げたくなる。

「こう言っちゃなんですけど、うちの家内は料理がうまいんですよ。しかし、皿や茶わんを運ばないと怒るし、運んでも怒るんです。かなわんなあと思いますよ」

東レの黒田さんはインドネシアで永眠する覚悟だが、内原さんはその境地にまではいかない。

「先々のことを思うと、帰るしかないんですが、帰ったら完全に家内の支配下に入ります。だからまだしばらくはジャカルタに居続け、年に何回か帰国して、家族や友だちら、みんなからちやほやされるほうがええかなあ、とも思います」

ジャカルタに戻っても、奥さんには週に1回は電話する。家にはいつも子供や孫が来ており、その声を聞くたびに安心する。(続く)