【インドネシアに生きる】ジャカルタで余生堪能 付かず離れず46年(3)

1971年の最初の赴任以来、インドネシアとのかかわりは46年にもなる。しかし、いくら長く住んだところで、インドネシア人にはなれず、心身ともに日本人であることに変わりはない。だからこそ、日本人として筋を通したい。仕事上では若い従業員に対し、しつけや規律を意味するディシプリンの重要性を口酸っぱく説く。ディシプリンを備えれば、会社もこの国もさらに発展するにちがいない。そんな思いを抱きながら、内原正司さん(75)はきょうも職場の物流倉庫内をパトロールする。(大住昭)

内原さんにお会いするのはじつは2回目だ。NNAが2002年に出版した「アジア日本人群像」での取材以来だった。前回同様にあたたかく迎えてくれたが、「自分はたいした人間じゃない」と繰り返される。以前と変わらない謙虚さに引かれるものがあり、今回も「そこをなんとか」と頼み込んで時間を割いてもらった。

ひと昔前に記事にしたとき、見出しは「キラキラ大地で直球一筋」とした。インドネシア語のキラキラは、悪く言えば「いい加減」だが、長年そうした風土に身を置きながら、「万事がキラキラだからって、それに同化してはならない」と自戒し、仕事ではいつも直球勝負。キラキラ大地で直球一筋に生きてこられた人のように思えた。

2016年4月、樋口修さんが眠るジャカルタの英雄墓地で。樋口さんが亡くなって20年目の命日に住友商事の関係者らと一緒に墓参した(内原さん提供)

■「いてこますぞー」の樋口さん

住商時代に取り組んだ事業の多くはインドネシアの国家プロジェクトであり、それも立ち上げ段階からかかわった。「そのこと自体、自分は幸運だった」と回想するが、事業の立ち上げは一番大変なのではないか。

「よくそういうふうに言われますけど、わたしは操業してからがもっと大変だと思います。立ち上げには準備された資金が投入できますけど、操業後は損失を出したら会社がつぶれてしまいますからね」

そうは言っても、立ち上げ時は突発的なトラブルや難題が続発する。それでも内原さんは「そのほうが面白いですよ。楽天的な性格もあってか、苦しかったという思い出はあんまりないですね」と言う。

混戦歓迎派なんだろう。ただ、乱戦にはいつも頼れる現場指揮官の樋口修さんがいた。

群馬県人の樋口さんは、近衛師団でスマトラ島に進駐。アチェで迎えた終戦後も帰国せず、オランダとの独立戦争に参加した。独立後の8年間はメダンの高校で理数科の教員を務め、1958年に住友商事がインドネシアに進出するとジャカルタ事務所の初代駐在員となる。内原さんが従事したプロジェクトのすべてにかかわり、辣腕(らつわん)ぶりを発揮した。

「にぎやかで明るい人でしたねえ。大阪弁の『いてこますぞー』が気に入って、口癖のように言っていました」

93年にスハルト大統領の肖像が入った5万ルピア札が発行されるが、樋口さんは当時のこの最高額紙幣を受け取らない。「かさばっても1万ルピア札でもらうほうが無難だ」と言っていた。懇意にしている華人実業家からの「スハルトはヤバいよ」との助言もあり、スハルト大統領が失脚する5年前から独裁体制の崩壊を予想していた。

■英雄墓地に眠る人生の師

樋口さんは内原さんの父親世代だったが、読書好きの勉強家。帰国して戻ってくるときは、カバンいっぱいに新刊書を詰め込んでいた。インドネシアにいても日本や世界の動きに後れをとることはない。アチェの歴史を書きたい、インドネシアがオランダから独立できたのもアチェがあったからだ、とよく話していた。

そんな樋口さんに影響されてか、内原さんも相当な読書家だ。好きな作家は谷崎潤一郎、松本清張、司馬遼太郎、吉村昭、城山三郎、有吉佐和子、山崎豊子など。「文藝春秋」は毎月購読し、ページを開けるのが楽しみだ。

インドネシアの研究者で話の中によく登場したのは、バクティアル・アラム元インドネシア大学理事や立命館大学の本名純教授、アジア経済研究所の佐藤百合理事など。松井和久さんや水本達也さん、中原洋さんの著作も引き合いに出した。

内原さんによると、戦前のインドネシアで活躍した日本人の足跡は78年発刊の「ジャガタラ閑話」に詳しく、からゆきさんや行商人の姿が生き生きと描かれているという。また世界の教科書シリーズに「インドネシアの歴史」があり、高校生向けは日本語に翻訳されている。

内原さんは中学校や高校で使われている歴史教科書にも目を通した。その中で日本の軍政について触れられたページがあり、それには「日本の軍政は結果としてインドネシアの独立に役立ったが、その目的はインドネシアの独立ではなく、日本の産業発展のためにインドネシアの資源を強奪することにあった」と記されている。

教科書は太平洋戦争時の日本軍のインドネシア進駐を「侵略」としているが、内原さんもこの見方に異論はない。

仕事と人生の師匠であった樋口さんは96年4月24日に自宅で殺害される。悲報を聞き、病院に駆けつけた日から20年の月日が流れたが、内原さんは毎年、ジャカルタの英雄墓地に眠る樋口さんのもとを訪れている。墓参りはこの先も続けるつもりだ。

2016年4月、勤務先で新旧社長が交代したときの歓送迎会で。場所はジャカルタのクバヨランの寮。内原さんは前列右から3人目で男の子と一緒(内原さん提供)

■つき合いには困らない

週に2回は声がかかる。つき合いの幅は広く、顔ぶれも老若男女さまざまだ。

まず、17年前に東レの黒田さんから引き継いだ産業別懇談会の会長職がある。月に1回集まって情報交換する一方、地方に足をのばして企業視察や研修を続けている。2016年7月は北スマトラのアサハン・アルミニウム(イナルム)を会員と一緒に訪れた。

大使館の総領事が中心となった懇親会のバタビア会や、大使なども参加するゴルフのラマゴン会のほか、顧問会と名付けられた集まりもある。かつては現法社長などの要職を務めていたが、いまでは第一線を離れて顧問役をしている日本人の会合で、20人前後が集まる。

出身校の大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)インドネシア語科のOBがメンバーの南十字星会や、言語にとらわれない同校卒業生の集まりに咲耶会があるが、この2つの会で最年長の内原さんは会長に担ぎ上げられている。

このほか、秘境の会がある。内原さん自身はインドネシアの34州すべてに足を運んでおり、ニューギニア島の西半分のイリアンジャヤには5回以上訪れている。15年10月は、バンダ海とアラフラ海の境界にあるタニンバル島を訪問。この島には将来、液化天然ガスの基地が設けられる予定だ。また16年9月には、モルッカ諸島の北に位置するモロタイ島を旅する。いずれも秘境の会や顧問会の有志数人が同行した。

内原さんは前回の取材時、旅先でのことを次のように話していた。

「カリマンタンなどは好きですね。西部のマハカム川を船で上ったり下ったりしました。南部のクマイには大きな川が流れており、オランウータンの生息地があるんですよ。熱帯の森では時間が止まったようにゆっくりしています」

■ジャカルタで町内会の余生

住商からインドネシアに最初に派遣されたのは30歳のとき。上空から真っ暗闇のジャカルタの街を見下ろしてから46年の月日が流れ、後期高齢者に仲間入りしたが、この先、さてどうするか。

これまでは大病もせず、なんとか元気でやってこれたが、この先どうなるかは神のみぞ知る。もういいかなあと思うときもあるが、一方で、あしたはあしたの風が吹く。振り返っても、あしたのことをあれこれ思案する人生ではなかった。だから、あしたのことはあまり考えないようにしている。

日本でなら、とっくに年金暮らしで、孫の成長を見守る年齢だが、9年前から勤務する住商グローバル・ロジスティクスのインドネシア法人では、いまも現役を続けている。もう年だから、仕事はほどほどでいいやとは思わないのだろうか。

「そう思うようになったら荷物をまとめるべきでしょうね。仕事への誇りみたいなものがなくなったら、すぐにでも腰を上げようと思います」

ここにとどまる以上は、長年の経験をベースにしたプライドを持ち続けたい。だから仕事上では遠慮しない。ズバズバ言う。時間厳守を徹底させ、遅刻などはもってのほか。容赦なくカミナリを落とす。ディシプリンを身に付けさせることは、その人だけでなく、インドネシアの将来にとってもプラスになるにちがいない。そう信じているからだ。

前回の取材から十数年の月日が流れたが、内原さんはやはり、キラキラ大地で直球一筋の人だった。その基本姿勢は、付かず離れず。インドネシアと寄り添いながら生きる中で、この地で出会った人々や大学の同窓生らとの「町内会」を楽しんでいる。そんな余生を堪能しているように見受けられた。(完)

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