【インドネシアに生きる】四国経由でジャカルタに ロマン追うコンサルタント(1)

大手メーカーで長年、経理をやってきた。だから数字や損得勘定にはすこぶる強い。しかし、この人の物事の判断基準は、おもしろくて楽しいかどうかだ。主体はあくまで自分にある。経営コンサルタントなんて、どう考えてもうまくいくわけがない。それでも、ぞっこんほれ込んだ年長の畏友と二人三脚で、21年前に新しいビジネスに乗り出した。「セミナーなんかでは、論旨の明快さよりも、聞き手がすとんと腑(ふ)に落ちる。これが肝心です」というジャパン・アジア・コンサルタンツ(JAC)社長の吉田隆さん(59)。グループ企業や大勢の社員を率いる身でありながら、遠くを見つめるような目で「できることなら、中部ジャワの大学の学生になりたい」などと言う。還暦を前にしても、夢とロマンと希望に向かっての旅を続けている。(大住昭)

吉田さんとは会社付き合いでも飲み会でも何回か顔を合わせた。お会いするたびに、この人の中には数学と文学が同居しており、音楽も流れているような印象を受けた。

「お近づきのしるしに」といただいた吉田さん著の「インドネシアルピアの旅」。これがまた、おもしろい。1ルピアが1日本円だった独立当初の頃から旅は始まるが、著者はおそらく、収集した古いルピア紙幣の絵柄や肖像を深夜に見つめながら、鼻に当てては時代の匂いをかぎ、耳に当ててはインドネシアの楽器が奏でる音色に酔っていたのではないか。そんな思いを抱かせる労作だった。

このシリーズ【インドネシアに生きる】は昨年9月からスタートしたが、吉田さんにはぜひとも登場していただきたかった。

吉田さんの人生に激震をもたらした元証券マンの関雅武さん。名誉からも金銭欲からもほど遠く、この世に歌があるだけで満足だったらしいが、一緒にJACを立ち上げてまもなく急逝する。

関さんが亡くなってから20年の歳月が流れ去ったが、吉田さんのハートにはいまも関さんが息づき、色鮮やかな残像をとどめている。吉田さんの話に耳を傾けながら、天国の関さんをもう一度、この世に呼び戻したい。聞き手にはそんな思いが募った。

そこで紙面への登場を願ったところ、本人は「ぼくは凡人の極みですから」と言って何度も固辞される。それでも拝み倒すと、「参ったなあ。ぼくは頼まれると断れない性分なので、これはもう、お受けするしかないですね」と、了解してもらった。

拝み倒すことができたのは、聞き手の出身が四国の徳島だったことも一因しているかもしれない。

吉田さんは初対面のとき、自分の略歴に触れる中で、四国には仕事で8年ほど住んでいたことがあるという。

「前の会社に入っていなければ、四国には生涯、足を踏み入れることはなかったでしょうね。関東育ちのぼくにとっては、四国は関係者以外、立ち入り禁止の島のようでしたから」

吉田さんより若干年上の聞き手は、四国を流刑先でもあるかのように語るご仁とはこれまでに会ったことがない。その意味でも、吉田さんという人物の感性とユーモアたっぷりの話はこの上なく新鮮。「もっと聞かせてほしい」と拝み倒した次第だ。

1月が誕生日なので、吉田さんはあと1年で還暦を迎える。インドネシアには30歳で来たため、日本とインドネシアで半々の人生になる。還暦の節目以降については思うところがあるらしいが、それは先の楽しみとして、まずは日本での半生からたどってみよう。

■ブーメランのみやげ

生まれも育ちも千葉県佐倉市。2人兄弟の上で、子供の頃の思い出にはいつも祖父がいる。栃木の農家出身の祖父は、上京して木材店にでっち奉公する。刻苦奮闘してのれん分けしてもらい、佐倉に腰を下ろして木材会社をつくった。54歳で他界するが、幼児のころは一緒に風呂に入ったり、寝る前に話を聞かせてもらったりした。

「ぼくにすれば、おじいちゃんがライバルですね。永遠のライバルです」

祖父母には一人娘しか授からなかった。それで神奈川県の茅ヶ崎から婿養子をとる。祖父としては木材会社を継がせたかったが、婿養子の父親は勤め人になり、外資系のオーチス・エレベータに勤務した。

吉田さんが幼稚園児のころ、父親は半年ほどインドネシアに出張している。バンドンの新築ビルにエレベーターを設置するためだったが、日本の戦後賠償で建設されたホテル・インドネシアのエレベーターを点検するためジャカルタにも来ている。

父親はたくさんのみやげを抱えて帰ってきたが、その中にブーメランが入っていた。

「インドネシアの人って、こんなものを使うのか。やっぱり、ドジンの国なのかなあ」

その言葉はいまでは差別語とされるが、ドジンとエレベーターとは、幼稚園児がイメージする中でどうしても結びつかなかった。

小中は地元の学校。きまじめだけが取りえで、人前で話ができるような子供ではなかった。中学校はバスケットで汗を流し、県立の佐倉高校に進むと、弓道部に入る。

体育の教師に地元出身の小出義雄先生がいた。後年、有森裕子や高橋尚子などオリンピック女子マラソンのメダリストを育てたが、弓道に打ち込んでいた吉田さんには縁がなかった。

佐倉高校1年生のとき。スキーは中学生になって始めた(吉田さん提供)

佐倉高校といえば、何と言っても元プロ野球選手の長嶋茂雄だ。「ミスター・ジャイアンツ」の母校でもあり、吉田さんも巨人軍の背番号3番にあこがれる。大先輩が進学した立教大学を目指すが、試験結果は不合格。明治大学の経営学部に受かった。

■ナポレオンに狂う

4年間、下宿せずに佐倉の実家から通う。最初の2年は京王線の明大前で降りて和泉キャンパスへ。片道2時間かかったが、通学途中の新宿駅には朝8時に着く。兄弟デュオの狩人が歌う「あずさ2号」が新宿駅のホームを離れる時刻だった。

あとの2年はお茶の水の駿河台キャンパスに通った。勉強をしたという記憶はひとかけらもない。スキーに遊びほうけていた。夏場は軍資金づくりのためのバイトに明け暮れ、冬は塩沢や蔵王でスキー三昧だった。

あるとき、うまくなりたい一心で滑っていたところ、大転落する。痛い目に遭って自問した。こんなことをしていて、ほんとに楽しいのかなあ、と。出てきた答えは「ノー」だった。スキーそのものが楽しいのではなく、佐倉高校の有志でつくったサークル仲間と一緒にいることができるから楽しいのだ。

そう思ってからは、スキーよりも5人でするトランプゲームの「ナポレオン」にはまった。仲間とスキー場にこもっても、スキーは二の次で夜中まで、いや気がつけば朝まで「ナポレオン」をやっていた。

「やり始めると、もう止まらないんですね。ナポレオンは遊びを通り越した頭脳プレーです。還暦近くになったいまでも、やりたいと思うときがありますよ。凝り性なんでしょうね」

中高生のときは人並みに、ビートルズをはじめサイモン&ガーファンクル、カーペンターズなどが好きで、明大生のころはシンガーソングライターの八神純子に入れ込んだ。「みずいろの雨」や「パープルタウン」などのヒット曲を持つ彼女は、吉田さんと同い年。ジュークボックスに張りついて何度も聴いた。「いまでも八神純子ファンです」と自認する。

大学4年生になって10月から就職活動を始めた。海外での事業展開に積極的なメーカーを希望する。とりあえずスーツに身を包んで東京駅に向かい、八重洲口にあった味の素を受けるが、相手にされなかった。

次に秋葉原のYKKに向かう。YKKは商標で、当時の社名は吉田工業株式会社。「名前が一緒だから、ここはいけるかも」と直感する。その思い通りに2日後には内定の連絡が入った。

役員面談では希望していた海外勤務のことにも触れられ、天にも昇った気分。アメリカかなあ、それともヨーロッパかなあ、海外ならアジアでもいいけど――。期待に胸を膨らませ、友人らにも吹聴した。

■海外ならぬ四国

入社式まであと数日の3月末、秋葉原のYKK本社から呼び出しを受ける。イヤな予感がした。

通された部屋では経理部長が待っていた。

「吉田君は明大の経営学部なんだね。だったら経理がわかるだろう。四国に行ってもらうから」

海外ならぬ四国と聞いて、「えっ!」とも言葉にならないほどのショック。頭がくらくらした。それを押し隠して「はい、わかりました」と返答する。

あとで友だちからやいのやいの言われる。「なんでおれ、四国なんかに行かなきゃなんないんだよう」というのが正直な気持ち。無実の罪で島流しにされる百人一首の歌人のような心境だった。

宇高連絡船。ある世代以上の四国出身者以外で、この連絡船のことを知る人は地理にすこぶる強いか、それなりの旅好きだろう。本州と四国を結ぶ本四連絡架橋の瀬戸大橋が1988年に開通するまで、国鉄(現JR)が岡山県の宇野駅と香川県の高松駅との間を運航していた連絡船だ。

富山県の黒部工場での研修後、吉田さんは電車を乗り継いで宇野駅までたどり着く。そして宇高連絡船に乗り込むと、船はゆっくりと瀬戸内海を航行する。甲板に立って宇野の方を見ながら、「ああ、おれは本州から捨てられた人間なんだなあ」と思った。

赴任前に四国出身の先輩に言われた。「吉田君、連絡船で高松駅に着いたら、予讃線と土讃線があるから間違えないように」と。関東の人間にはこれが不可解。1番線や2番線にすれば、ヨソ者でもわかりやすいのに。予讃線は伊予松山と讃岐高松、土讃線は土佐高知と讃岐の高松・多度津を結んでいることはあとで知った。

住宅用アルミサッシや玄関ドアなどを生産するYKKの四国工場は、香川県坂出市の隣町、綾歌郡宇多津町にある。経理部に配属されたが、学生気分が抜けず、「四国なんかに」との気持ちで赴任したものだから、そのしっぺ返しは大きかった。上司には「いったい何を考えてるんだ!」と、何回怒鳴られたことか。「お前のようなできそこないの大卒よりも、中卒を採ったほうがよっぽどましだ」とも言われた。定規はこう持って、こう使って。基本からたたき込まれた。

工場のすぐ近くには瀬戸大橋に続く高速の高架道が通っているが、吉田さんが赴任したときは橋脚の建設工事が始まったばかり。毎日怒鳴られて半泣きになり、涙目で工事の進展を眺めながら、四国勤務の身になったことを悲嘆した。

■奥さんは現地調達

それでも次第に仕事になれてくると、こんどは一転して四国びいきになる。弘法大師(空海)ゆかりの四国八十八カ所の札所でもある山奥のお寺を訪ねては感動し、最初の赴任時は涙の宇高連絡船も、のちにはこう変わる。

「夜の連絡船は情緒があって最高ですね。ずっと感傷にひたることができますから」

28歳で所帯を持つ。「現地調達した」という奥さんは6歳年下で、坂出の地元出身。建物は別だったが、同じ会社の業務部に所属していた。社内のテニスサークルで一緒になり、話していると、なぜかひかれる。波長が合ったのが決め手になった。

そのうち長男を授かる。奥さんの両親をまじえてみんなで食事をしているときなど、「ああ、平和だなあ。四国のこういう生活もいいなあ」とつい思ってしまう。かつては流刑先のような位置づけだった四国だが、「この地で生をまっとうするのも、それはそれで一局の人生かも」と思うようになった。

ところが人生とは皮肉なもの。入社して6年が過ぎたころ、海外では第一号となるアルミ建材の一貫工場をインドネシアに設ける計画が浮上する。「あっ、これはおれが行くことになるな」と直感した。インドネシアは父親がかつて仕事でかかわった、あのブーメランの国であり、長男の自分がその後を追うのも自然なように思えた。

そう思うものの、インドネシアについての知識はほとんどゼロ。南の国ということはわかっていても、タイと比べてどちらがより南なのか自信がない。インドネシアが南半球にあるとは思ってもいなかった。

1984年、YKK四国工場に勤務時、同僚と神戸に社員旅行した。吉田さんは左端(吉田さん提供)

■インドネシア赴任に

やがて直感は当たり、東京本社に呼び戻されて10カ月ほど研修を受ける。経理部員としてこれまでは財務にばかり目を光らせてきたが、本社では船積みなど貿易の実務を勉強する。新鮮でやりがいがあった。

研修期間が過ぎていよいよインドネシアに赴任する段になって、先輩から「24時間働け。滅私奉公だぞ」と激励された。いまでは禁句だが、30年近く前の当時はこの種の言葉が生きていた。

「先輩に言われたときはそうでもなかったんですが、私心を捨てて公に尽くすという滅私奉公。励ましのいい言葉だと思いますね」

尊敬する別の先輩からは、YKKの企業理念である「善の循環」を忘れないようにと言われた。「この先、大変なことが待っているかもしれないけど、壁にぶつかったときはこの『善の循環』という言葉を思い出せばいい」と、先輩は話した。

「善の循環」はYKKの創業者である故吉田忠雄の仕事に対する基本的な考え方で、「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」というものだ。企業は社会の重要な構成員であり、社会と共存してこそ存続できる。その利点を分かち合うことによって、企業は社会からその存在価値を認められるとされている。

「企業理念や経営哲学と言われているもので、これ以上のものはないと思います。ぼくにとっては宝のようなはなむけの言葉でした」

(続く)