【インドネシアに生きる】招き猫が人生の畏友招く ロマン追うコンサルタント(2)

30歳のとき、管理部門の責任者としてYKKのインドネシア法人に送り込まれ、ジャカルタ暮らしは会社の寮から始まった。仕事上で飲まざるを得なかった苦汁は、「ブロックM大学の夜間部」と呼ぶ歓楽街に通い、本物のアルコールで薄めるしかなかった。東京本社に出張して怒鳴られての帰路、吉田隆さん(59)は成田空港で招き猫の置物を気晴らしで買う。ここから新しい人生が転がり出した。仕事がらみで山一証券の合弁会社代表の関雅武さんに会ったところ、すぐさま意気投合。奇想天外を地で行く関さんから「コンサルタント会社、やらない?」と声をかけられ、「この人と一緒なら、人生、一回ぐらい棒に振ってもいいか」と決断する。38歳の新たな船出だった。(大住昭)

YKKインドネシア勤務時にオフィスで(吉田さん提供)

インドネシアの大地にはじめて降り立ったのは1987年12月。成田から飛び立ったJAL機はマレーシアのクアラルンプール経由で夕方6時ごろ、ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港に到着した。

2年前に鳴り物入りで開港したばかりと聞いていた新空港は、薄暗い蛍光灯がレンガ造りの建物を照らしており、なんとなく物寂しい。やる気のなさそうな空港職員の表情や動作にはどことなく異国情緒が漂っていた。

翌年の1月、30歳の誕生日を過ぎてから単身で正式赴任する。

YKKの現在の海外拠点は71カ国・地域になるが、当時は42カ国・地域。いったん赴任すると駐在期間は他社よりも長くなる。吉田さんはそれで「30代はしがみついてでもインドネシアにいよう」と腹をくくっていた。

「いまから思えば笑っちゃいますが、成田での出国審査のとき、係官に『日本には生きて帰れないかもしれません』なんて、小声で話しかけたんですよ。気弱というか何というか。心細かったんでしょうね」

迎えの車はスカルノ・ハッタ空港からジャカルタの街中に入る。道すがら、裸電球の周辺は祭りでもやっているかのようににぎやかだが、明かりが届かないところはまっ暗。南国の厚ぼったい暗闇の中で何かが息づき、うごめいている感じがした。

雨期だったので、そのうちスコールに見舞われる。信号で車が止まるたび、暗闇からぬうっといくつもの手が伸びてくる。小銭を稼ぐ窓ふきたちの手だった。

■戦友たちと寮生活

クバヨラン・バルの会社の寮に落ち着く。7部屋ほどある大きい家で、アルミの建材部門を中心とした日本人の寮生はピーク時には男ばかり16人にもなった。大部屋にはベッドが4つ。工場長が使っていた部屋にはベッドが2つあったが、寮生はみんな敬遠するので吉田さんが入る。工場長とはよく話した。

当時は携帯電話などなかった。仕事が終わると寮に帰り、ひと風呂浴びてからお手伝いさんがつくってくれた夕食をがっつく。そのあと寮に残っていると、仕事がらみの呼び出しが寮の電話にかかるので、おおかたは外出した。

クバヨラン・バル地区には歓楽街のブロックMがある。寮生のほとんどは、なじみの女の子がいるカラオケ店で夜遅くまで飲むのが日課。寮生はそのことを「ブロックM大学の夜間部に通っている」と話していた。

単身だった吉田さんも、もちろん同じ。寮からは通常のタクシーは使わず、「バジャイ」と呼ばれるオート三輪か、庶民の足でもあった人力車の「ベチャ」に乗る。「バジャイ」に乗って浮かれ街に繰り出すときは、映画の「ローマの休日」で見たアン王女のような気分になった。ゆっくりと進む夜の路上には、南国の陽光にあぶられる昼間にはない人々の活気がみなぎっていた。

寮生は各自、謎の行動を取る。週末になると、決まって姿を消す者もいた。

「寮生活は家族がやってくるまでの半年だけでしたけど、16人もの大の大人が同じ屋根の下で寝起きするという、ある意味、すさまじい時代でしたねえ。いまから思うと、みんな戦友です」

ブロックM大学に通っても、女の子とのおしゃべりだけではインドネシア語は上達せず、語彙(ごい)も増えない。家族が来るまでになんとかしなくては。そう思った吉田さんは、日常生活で最低限必要な単語を1日に20ほど日本語で書き出し、それをインドネシア語に訳してもらう。その単語をインドネシア語での会話の中で意識的に使うようにして覚えていった。

■ラッキーキャット

YKKは1972年からジャカルタ郊外でファスナーの生産を始めているが、アルミ建材や工作機械の生産にも乗り出し、インドネシアでは全体で4社体制となる。吉田さんは管理部門の責任者となって現法社長をサポートした。

YKKの数ある海外法人の中でも、インドネシアは重要拠点だった。このため本社からは役員クラスが次々にやってくる。副社長が来るときは、現法社長が空港で出迎え、吉田さんはホテルの玄関先で待つ。レストランで食事するときは、事前に味をチェックした。旅好きの副社長を引率してインドネシア各地の穴場を回ったこともある。そうするためには、あらかじめ現地を訪れて下調べしておく必要があった。

業務で帰国して本社に出向いたとき、副社長と顔を合わせると、「吉田君、この前、楽しかったよ」と声をかけられる。上司からは「おい吉田、どんな接待したんだよ」と聞かれた。会社ではいまだ30代のペーペーだったが、鼻が高かった。

インドネシアでのファスナー部門は操業開始以来、順調に推移してきたが、建材部門は四苦八苦する。アルミのサッシは、すきま風を防いで冷暖房効果を上げる日本では受けても、インドネシアではエアコン付きの住居がそもそもからして少ない。建材部門はスタート時から大赤字を計上した。

YKKの海外駐在員は3年に一度、社費で帰国できたが、吉田さんはインドネシア事業を報告するため毎月、東京本社に顔を出さねばならなかった。ファスナー部門の報告では、上司から「吉田君、よくやっているねえ。ありがとう」とほめられる。ところが建材部門の会議に出ると、「何やってるんだ、このバカ者!」と怒鳴られた。

建材部門はその後好転し、工場を拡張するが、業績はまた下降線をたどる。95年12月の本社会議では、しこたま痛罵された。なんでこんなに怒られなきゃいけないんだろう。いつもはそれほどでもないが、その会議終了後はなぜか気持ちが沈んでしまった。

帰りの成田空港のみやげ店で、飾り物の招き猫が目に入った。神々しい顔つきをしている。気分転換になるかもしれないと思って衝動買いした。

「その招き猫をジャカルタの家に持ち帰ってしばらくしたら、野良猫が迷い込んできたんです。品があって、人間にしたらすごい美人にちがいありません。家で飼うようになって、『シロクロ』と呼んでいました。神々しさでは招き猫に負けていないシロクロちゃんは、あとあとラッキーキャットになりましたね。ぼくのそれまでの人生を大きく変えてくれましたから」

建設中のYKKインドネシアのアルミ建材工場で得意先の関係者と(吉田さん提供)

■関さんにほれる

長い人生行路の途上ではさまざまな人と出会う。はじめは単なる仕事上の顔合わせであっても、あとになって自分の人生を激変させる出会いに発展する人も、ごく少数だがいる。限りある人生で、そうした人に巡りあうことができれば幸せだ。

吉田さんの場合、その人は関雅武さんだった。関さんとの出会いと交遊、自分たちの会社設立、ビジネスパートナーとしての二人三脚、そして突然の永別。関さんが急逝してから20年の歳月が流れたが、吉田さんのハートにはいまも関さんが息づき、色鮮やかな思い出であふれている。聞き手のこちら、その熱い回想談に耳を傾けながら、男が男にほれるというのは、まさにこういうことなんだなと思った。

関さんは吉田さんより22歳年上。群馬の出身で慶応大卒。山一証券に入り、ドイツに10年以上駐在した。吉田さんがジャカルタではじめて顔を合わせたときは、山一証券とアジア開発銀行との合弁企業であるアジア・デベロップメント・セキュリティーズ(ADS)の現法社長をしていた。

YKKのインドネシア法人はその頃、過半数の株式を掌握して安定した経営環境を整える必要に迫られており、吉田さんがその任務を担っていた。日本の親会社のYKKは非上場会社だが、インドネシア法人は株式の25%を部分上場することになり、ADSがそれに協力することになって、2人は知り合った。

慶大の合唱団にいた証券マンの関さんには、吉田さんによると、名誉や金銭欲がかけらもなかった。唯一執着するのは歌で、歌っていられさえすれば幸せな人だった。ただその一方で、欧州仕込みの金融理論は超一流。そばで聞いていて、ほれぼれするほどだった。

■大ぼんぼんと小ぼんぼん

欧州のクラシック音楽に精通していた関さんの口癖は「インドネシアの民族音楽はなんて豊富なんだろう」。バタック音楽の第一人者だったゴードン・トビン氏やクラシック界の大御所だったプラナジャヤ氏ら多くの音楽仲間と交友した。関さんはスマトラ島のバタック族が奏でるバタック音楽について、「イタリアのカンツォーネに似ているね」とよく話していた。

そんな関さんはあるとき、インドネシアについてもっと勉強しなくては、と一大決心。秘書に「わたしが通えるような小学校を探して」と頼んだ。当時は校長の許可さえあれば、大人でも通学を許可してくれた。小柄でちんちくりんだった関さんは、インドネシアの子供たちと一緒に通学する。そんな奇想天外な人だった。

「仕事などで関さんの周りにいる人は意外に冷めているようでした。関さんという人間に心底陶酔したのは、ぼくだけだったのかもしれません」

一緒にいるだけで楽しくて仕方がなかった。仕事を離れて交遊の密度を濃くし、イリアンジャヤの奥地を2人で旅したこともある。

そんな仲良しコンビを吉田さんの奥さんは「関さんは群馬の名家の大ぼんぼん、あなたは千葉の小ぼんぼん。ぼんぼん同士だから馬が合うのよ」と分析。奥地に旅立つ前には「関さんは財産もあるし子供も大きいから旅先でころっとなってもいいけど、あなたにはまだ死なれちゃ困るから」とくぎを刺された。

ともあれ、マラリアの薬を飲んで出かけたイリアンジャヤの奥地では、先住民の村を訪問。「コテカ」と呼ばれるペニスケースのほかは、まっ裸で並んだ2人の写真が残っている。吉田さんはそのとき、ケースが落っこちないかとひやひやしていた。

1993年8月、関雅武さん(右)とイリアンジャヤの先住民集落を訪問(吉田さん提供)

■コンサル会社を設立

ジャカルタに招き猫を買って帰ったあと、野良猫が家に迷い込んだ96年の1月、関さんに会うとこう切り出された。

「わたしねえ、もうじき定年なんですよ」

「いいですねえ、帰国されて思う存分、歌の世界にひたることができるじゃないですか」

「正直に言うと、まだ帰りたくないんですよ。インドネシアはこれからおもしろくなるんで、ここでコンサルタントなんかの仕事ができればいいんですけど」

話の流れでコンサルタント会社を2人で立ち上げるということになり、大いに盛り上がった。関さんは証券マンなので間接投資はお手のものであり、一方の吉田さんはメーカーの経理マンなので直接投資に強い。2人の持ち味を出し合えば、けっこういけるのではないかということになった。

「本社でいくら怒鳴られても、ぼくはYKKという会社をこよなく愛する人間でした。また、ぼくには女房子供がいて、子供たちはまだ小さい。ここでYKKを辞めて関さんと一緒にやるとしても、家族は食っていけるのだろうかなどと、いろいろ考えました」

思案して出した結論は「人生、一回ぐらい棒に振ってもいいかな」だった。

コンサルタントなんかで食っていけるはずはない。自分は自分のことをよく承知している。こんないい加減な人間が他人のビジネスの相談なんかに乗れるはずがない。そう思う一方で、会社に踏みとどまって優等生を通すよりも、関さんと一緒にやるほうが断然楽しい。これまでとはちがう人生に一歩を踏み出す。夢はそちらにあるように思えた。

沢田研二の歌に「時の過ぎゆくままに」がある。吉田さんは阿久悠作詞のその歌の一フレーズ、「堕(お)ちていくのも幸せだよと~」を口ずさみながら、「この人となら一緒に落ちてもかまわない。いや、この人は落ちるわけがない。この人に地獄は似合わない」と思った。その人こそ関さんだった。

関さんは、金融知識は豊富でも、基本的にこの世に歌さえあれば満足できる人。「コンサルタント会社をつくろう」と言っても、会社の登記をどうするのかや、財務などができる人ではない。「ぼくがやっぱりついていないとダメだろうな」といった母性本能に近い気持ちも働いた。

YKKには1月に辞表を出したが、すぐには受理してもらえなかった。業務の引き継ぎもあり、6月に入ってようやく身を引く。関さんとの新しい人生の船出が始まった。(続く)