【インドネシアに生きる】黄金の日々に突然の悲報 ロマン追うコンサルタント(3)

必然とは偶然の積み重ねかもしれないが、招き猫に手招きされるかのように踏み出した人生の新境地。それはまさしく、吉田隆さん(59)のターニングポイントだった。背中を押してくれた関雅武さんとともに、1996年に始めた総勢4人のジャパン・アジア・コンサルタンツ(JAC)。小さいオフィスで電話が鳴るだけでも小躍りした創業期は、吉田さんにとっては人生のゴールデンタイムでもあった。しかし、黄金の日々は長続きしない。インドネシアの現代史を塗り替える激動期の始まりに合わせるかのように、関さんは急逝する。JAC丸はそれでも、時代の荒波に翻弄されつつ、逆風を追い風に変えてきた。(大住昭)

2016年9月、JAC会議室で(NNA撮影)

証券会社の一室を借り受けたオフィスは、大型ショッピングモールのパシフィック・プレイスの向かいにあるAGビルの中にあった。20平方メートルしかない小さなオフィスだった。

創業メンバーは関さんと吉田さん、それに2人のインドネシア人を含めて4人。社名は関さんの命名で「ジャパン・アジア・コンサルタンツ(JAC)」とした。たったの4人しかいないのに社名にアジアを入れるのは、なんだか仰々しくて恥ずかしい。そう思ったが、関さんは意に介さず、「アジアを入れると壮大で生き生きします。吉田さん、将来は上場しましょうよ」と、威勢がよかった。

開業当初は当然のことながら、ヒマで仕方がない。朝はゴルフ場で汗をかき、昼から出社する日々だった。

「将来への不安ですか。なかったように思いますね。それよりも、もう縛られるものはないんだという解放感でいっぱいでした。まだ38歳で若かったのかもしれません。にっちもさっちもいかなくなったら、最後は荷物をまとめて千葉の実家に転がり込めばいいとも思っていました。トシはとっても、ぼんぼん気分がまだ抜けてなかったんでしょうね」

たまにオフィスの電話が鳴ると、ドキドキする。もしかして、お客さんかも。そう思うと心が弾み、受話器を手にすると興奮した。実際に客からの電話だとわかると、「わあっ、すげえ、仕事だあ!」と内心で叫んだ。

「もう無理なんでしょうけど、あの高揚感、もう一度味わってみたいですね。ぼくの人生のゴールデンタイムだったかもしれません」

ヒマだったのはひと月ほどで、仕事が回り始めてからは早朝ゴルフどころではなくなった。それでも関さんと一緒にいられることは何物にも代えがたかった。毎日が楽しくて仕方がなかった。

■関さんの急死

創業翌年の97年7月、香港の主権返還があり、同時期にタイを震源地とするアジア通貨危機が起きる。インドネシア通貨のルピアはその年の後半にかけて大暴落し、吉田さんが家族のために取っておいたルピアによる定期預金も、日本円換算で4分の1に激減してしまう。

「そんな状況でしたけど、いまから思えば、あの頃が最高でした。この先、どうなっちゃうんだろうと思う一方で、何とも言えない快感が走るんですね。定期預金のほうは、しばらくすると金利が跳ね上がり、笑いが止まらなくなります。それはもう、ジェットコースターに乗っているような感じ。とにかく、あの頃は楽しくて、楽しくて」

しかし、そんな人生のゴールデンタイムは長続きしなかった。

97年の11月、関さんの古巣である山一証券が自主廃業を発表する。関さんのもとには親戚筋などから電話がじゃんじゃんかかってくるが、当人は「困りましたよ」と笑い声で言う。また「吉田さんのような若い人と一緒に仕事をしているので、この先、健康が一番です。コレステロールの薬を飲み始めて、こんなに数値が下がりましたよ」と、うれしそうに話していた。

その関さんが12月1日、心臓発作で帰らぬ人になってしまう。

ショックとかの言葉では言い表せない。全身全霊が打ち震えるほどの、圧倒的な衝撃。それに途方もない悲しみに襲われたが、吉田さんはそれをぐっとこらえ、事後処理に奔走した。

病院から死亡確認書をもらい、大使館に届け出る。インドネシア製のひつぎに遺体を入れて同じ便で帰国するが、かたや貨物扱いの遺体、かたや座席の人。成田までの間、関さんとの出会いからこれまでのことが何度もフラッシュバックした。

ひつぎとともに、関さんの群馬の実家に移動して葬儀に出席する。関さんの母親は俳人で、息子の死を悲嘆して一句を詠んだが、吉田さんはそれに息苦しいほどの感動を覚えた。

事後処理に追われていたときは、緊張していたせいか、それほどでもなかったが、ジャカルタに戻って一人、関さんのことを思い出すと、目からとめどなく涙がしたたり落ちた。

1992年9月、ジャカルタの音楽祭で関雅武さん(左端)やバタック音楽の第一人者ゴードン・トビンさん(ピアノ演奏者)らと。吉田さんは左から2人目(吉田さん提供)

■まるでタイタニック号

98年に入ると、インドネシアの政治状況は一挙に流動化し、5月に起きたジャカルタ暴動を引き金にして32年にも及んだスハルト体制は崩壊する。関さんが他界してから半年間は、インドネシアの現代史の中でも激変期に当たるが、吉田さん自身は意外と落ち着いていた。先行きの不安よりも、何か新しいことが始まるのではないかという、躍動感にも似たものを感じていた。

5月の暴動の際は家族で2週間ほどヒルトンホテルに避難する。当時住んでいたタンゲランの新興住宅地も暴徒に狙われているとの情報が入ったため、連絡すると1部屋だけ空いているという。車でホテルに着くまでの間は、身の危険を感じて緊張した。ロビーに一歩入ると、そこにはジャカルタの街の騒々しさやささくれだって険悪な空気がシャットアウトされた別世界があった。

「前の年に封切られた映画の『タイタニック』のようでした。船の外は漆黒の海ですが、船内では楽団がいつものように演奏している。ホテルのロビーにはゆったりとした音楽が流れ、外国人の女性客が優雅に歩いています。それまでの緊張感がほぐれて、ほっとしましたねえ」

首都を炎上させた暴動から1週間後、スハルト大統領の退陣表明で状況は沈静化するが、吉田さんは「暴動の後遺症はしばらく続くだろう」と予想していた。しかし、悲壮感らしきものは不思議とわいてこない。亡くなった関さんに代わって社長になるが、立ち上げ当初は小所帯ゆえ、小回りがきいた。自分だけ辛抱すれば、ほかの社員の給料は払える。顧客企業がゼロになっても、当座は生きていけるとの自信があり、先行き不安で頭を抱えるといったことはなかった。

■暴動後は順風満帆

JACの主な業務は、日系企業のインドネシア進出サポート。会社設立や駐在員事務所の開設支援からはじまり、進出後の税務、経理、労務、給与計算、社会保険、外国人ビザ業務などの相談を日本語で対応するもので、吉田さんにはYKK勤務時、この方面では知識と経験の蓄積があった。

コンサルタント業務は思いのほか順調に進み、日系の中小企業を中心とした顧客も増えてくる。当時はコンサルタントを軸にして業務の多角化を図るなどといった考えは毛頭なかったが、ある出会いから旅行会社を新たに設けることになる。

それは光武英理子さんとの出会いだった。英理子さんには以前から航空チケットの手配を頼んでいたが、吉田さんは電話での応対ぶりが気に入っていた。英理子さんが退職のあいさつにやってきたとき、「そう、辞めるんだ。じゃあ、一緒にやる?」と声をかけた。

「フィーリングです。なんだかビビッときたんですね。この人とならいいかという感じでした」

2004年、英理子さんを社長にJACグループの旅行会社、ジェイ・ネット・トラベルが開業する。いまでは50人近くのスタッフがいる中堅の旅行代理店となった。

4人で始めた本業のコンサルタント部門は、いまや220人のスタッフを抱える大所帯だ。顧客企業は15年12月時点で約600社を数える。グループ企業には旅行会社のほか、月刊誌の発行や出版を手がけるジェイ・ネット・メディア、日本人の公認会計士を軸にしたジェイ・ネット・ソリューションなどがある。

JACのオフィスはジャカルタの目抜き通り、スディルマン通り沿いのビルにある。ここには00年に引っ越してきた。最初は小さいスペースだったが、社員数が増えるにつれて大きくなり、いまではコンサルタント部門だけで1フロア全体を使っている。

社長の吉田さんを訪ねると、会議室に通された。広いオフィスのほぼ中央にあり、ドアを閉めても密室にはならず、会議室からはガラス越しにスタッフの作業風景を眺めることができる。逆に言えば、スタッフからもこちらの状況を見ることができる。この会議室はオフィスのスペースを広げるうちにできたものだが、見るほうも見られるほうも互いに緊張感を持つことができるので、吉田さんは「悪くないかな」と思っている。

吉田さんファミリー。1996年11月、YKK退職後に移り住んだジャカルタ郊外の自宅前で(吉田さん提供)

■視点を変えて

自分からこうしたいとの意志が先行するのではなく、どちらかと言えば、行きがかりの人生。関さんと出会い、関さんに魅了され、関さんから声をかけられて一緒に始めた会社だったが、肝心かなめの関さんを失ってから20年。会社経営は山あり谷ありだろうが、吉田さん自身、やめたいと思ったことはないのだろうか。

「それはないですね。一度も赤字を出したことはなかったし、総じて順調にきたと思います。いい人材にも恵まれましたしね。ただ、会社はまだ発展途上にあるでしょう」

実務セミナーの講師役の声もよくかかる。ありきたりのことをしゃべるだけでは、話し手の自分も楽しくないし、聞き手もつまらない。

「コンサルタントという仕事は、言ってみれば漫才師や落語家と同じです。お客さんからあとで『いやあ、来てよかった。あの話、すとんと腑(ふ)に落ちて、すっきりしたよ』と言ってもらえれば成功です。理路整然とした内容や語り口がシャープであること以上に、肝心なのは、聞いてくれているお客さんにいい気分になってもらうことです。そこは重要なポイントですね」

吉田さんはこれまで、会社組織や仕事上でたっぷりともまれる中で、自分なりの人間観察眼を身につけてきた。

「自分は自分のことを知っています。なんていやなヤツなんだろうって、内心では思っていますが、そのことを必死で隠そうとするのが人間です。だから、きれい事ばかり言っているヤツは信用できない。こいつ、ちょっと変わっているな、だけど本音でしゃべっているなと思える人は信用できますね」

YKKに勤めていたころ、高松駅で年配の酔客にからまれたことがある。「おい、あんちゃん、ここに座れ!」と言われたので道路の縁石に並んで座ると、その酔客いわく「どうだ、こうやって座ってみると、街も人間もちがって見えるだろ」。

いつもより120センチ低い目の位置。たしかに、見慣れているはずの景色が一変していた。通りすがりの通行人にしても、群れとしてではなく、血が通った一人一人の人間として目に鮮やかに飛び込んでくる。

「呼び止められたときは、酔っぱらいのオヤジでしかなかったんですが、これまでとはちがう景色を目にしたとき、この人は仙人か導師かと思いましたよ」

視点を変えて物事を見る。吉田さんの人生行路には、大勢の仙人や導師がいるようだ。

■うちのよめはん

YKK勤務時代、四国の坂出で「現地調達」した奥さんとは6歳半の年齢差がある。それだけ開きがあれば、夫はある程度、妻をリードできるのではないか。そう聞くと、吉田さんは「いやいや」と否定的だった。

「ぼくの見方だと、年の差があればあるほど、亭主よりも女房が強いと思います。そんな夫婦をたくさん見てきました。結婚するまではかわいくて仕方なくても、結婚したとたんに女は母ちゃんになる。出産したらもっと強く、たくましくなりますね。子供という、守るべきものができたので。結婚して30年以上になりますけど、いまではうちのよめはんには頭が上がりません。うんうんと聞いているばかりです」

生まれも育ちも関東の吉田さんは、奥さんのことをいつも「うちのよめはん」と形容する。郷里が四国の聞き手はそのたびに、吉田さんだけでなく、お会いしたことのない奥さんにも親近感を抱いたものだ。

ともあれ、YKKでインドネシア赴任が決まったとき、「うちのよめはんは意外にケロッとしていて、あなたについて行くしかない」ときっぱり。YKKを辞めるときも、「うちのよめはんは、あなたが決めたんだったら、それでいいんじゃない」と意に介さなかった。

子供は2人授かった。坂出生まれでジャカルタ育ちの息子は、大学を出てからJACに就職。現在は副社長を務めている。中学校まではジャカルタで高校からは日本の下の娘は、16年の9月に結婚した。息子のほうは17年5月にスマトラ出身のインドネシア人女性と所帯を持つ予定だ。

子供たちが相次いで巣立っていくが、父親の気持ちやいかに。

「子供たちの人生選択に反対はしません。就職も結婚も、基本的には自己責任ですから」

口ではそう言うものの、心の中では新しい人生の門出を手放しで祝福してやりたい気持ちでいっぱいなのにちがいない。(続く)