【インドネシアに生きる】還暦をバネに新たな旅立ち ロマン追うコンサルタント(4)

生まれも育ちも関東だが、四国経由で30年前、メーカーの経理担当としてインドネシアにやってきた。経歴からは堅物のイメージが強いが、それは一側面でしかない。この人には実際、数学と文学が同居していて、そのすき間に音楽が流れている。歌に生き、奇想天外を地で行った畏友との運命的な出会いから、38歳で人生のハンドルを大きく切る。冷徹さと深読みが求められる経営コンサルタントになった吉田隆さん(59)だが、アタマとハートの中ではいまも理性と感性が綱引きして、軍配は往々にして後者に上がる。日本とインドネシアで人生半々。節目の還暦を一つのバネに、新天地へ旅立つことを夢想している。(大住昭)

創業前は「コンサルタントなんかで食っていけるはずがない」と思っていたが、仕事が回り始めると、自分の考えを活字にして残したくなった。2004年から始めた「税務なんかこわくない」の執筆を皮切りに、「インドネシア会社経営」や「インドネシア経営術・人事術・仕事術」などの実務書を次々に世に出してきた。

■「インドネシアルピアの旅」

異色なのは15年8月に発表した「インドネシアルピアの旅」だ。前年の10月から書き始めて5カ月がかりで仕上げた。

インドネシアの歴史本によると、1945年8月の独立当時、日本円とインドネシアルピアのレートはほぼ同じで、1円は1ルピアだった。吉田さんが87年にはじめて来たとき、1円は10ルピアほどだったが、現在では120ルピア前後になっている。ルピアのレートはなぜ、このように大きく変動したのだろう。ルピアの歴史をたどるには古札を調べるのが一番近道のように思えた。

91年に家族で立ち寄ったデパートのみやげ物売り場で、太平洋戦争時に日本が発行した軍票をたまたま見かけた。3枚を7,500ルピアで買ったが、なんだか大変な秘蔵品を手に入れた気分になった。このことも古札に関心を持ったきっかけになるが、「ルピアの旅」を続ける中で、古札には人々の暮らしや文化、政治、歴史などが凝縮されているように感じた。

ルピアの古札に描かれた人物には、オランダとの独立戦争時の英雄が多い。独立後の初代大統領のスカルノとそのあとを継いだスハルトは、吉田さんによると、ルピア札のなかで暗闘している。

「スハルトは自分の肖像をデザインした5万ルピア札を93年に発行するんですね。スハルトの性格からして、自分が生きている間にそんなお札を出すなんてことは考えられない。そのころからおかしくなったんではないですかねえ」

当時の最高額紙幣だったその5万ルピア札の裏面は、85年に開港したスカルノ・ハッタ空港のデザインだ。

「スハルトは自分のお札にスカルノの名を冠した空港のデザインを入れることによって、スカルノを追い抜くことができたと思ったんじゃないでしょうか。ところが時代が変わって民主化が進む中で、スハルトの5万ルピア札は発行停止となりますが、スカルノの肖像がデザインされた10万ルピア札はいまも流通しています。スハルトは結局、スカルノを追い越すことはできなかったんでしょうね」

■ガジャマダ大学の学生に

数枚のお札を見比べていても、合わせていくらになるかと計算したくなるのが庶民感覚だろう。ところが吉田さんはちがう。この人は一枚一枚のお札の図柄を観察しながら、発行された時代に思いを寄せたり、楽器が奏でる音色に耳を傾けたりする。やっぱり、ロマンチストなのだ。

「58年に発行された働く人シリーズのお札を眺めていると、あふれるほどのなつかしさと、ゆったりした音楽が聞こえてきそうになります。資本主義社会で失いつつある大切なものをお札が訴えているような気がします」

コンサルタントとして、また個人として、インドネシアを知るためにこれまで多くの関連本に目を通してきたが、読み応えでいえば91年に出版された「カルティニの風景」が一番という。出版から4年後に惜しまれながらこの世を去ったインドネシアの研究者、土屋健治さんの作品で、吉田さんによると、中部ジャワの風景を余すところなく描写している。

その中部ジャワでも、古都ジョクジャカルタのガジャマダ大学とその周辺が好きだ。

「できることなら、あの大学の学生になって、月1~2万円ぐらいの生活をする。昼は緑の構内で勉強し、夜になって通りに出ると、楽隊が音楽を奏でている。それはもう、みやびな世界で、何とも言えないほどいい感じなんです。そんな環境に身を置きたいけど、もう無理ですかねえ」

2016年7月、JAC創業20周年を迎え、吉田さん(写真中央)はハラルビハラル(イスラム式新年会)で司会をしながら記念ケーキに入刀する(吉田さん提供)

■「ゆでガエル世代」として

インドネシアの人と大地がかもし出すゆったりさとおおらかさ。それをよしとすれば、日本社会はなんともせちがらく、とげとげしい。

以前、東京の駅のチケット販売機の前で特急券を買おうとしてまごまごしていると、列の後方から「何やってるんだ!」と怒鳴られた。これがインドネシアなら「どうしたの、大丈夫?」と声をかけてくれるだろう。2016年6月に放映されたNHKスペシャルは「不寛容社会」がテーマだったが、吉田さんはそれを見ながら「日本はまさしく不寛容社会だなあ」と思った。

日本でエレベーターに乗ると、たいていが止まるまでの間は沈黙の世界だ。なんとなく気まずい思いがする。同僚同士であっても、周囲にはばかるようなひそひそ声になる。

「そんなときは無性にインドネシアを思い出しますね。こちらでは遠慮などまったくせず、大声で話しますから。ビルの清掃人なんか、廊下やエレベーターの中で急に歌い出します」

ビジネス社会ではこのところ、「ゆでガエル理論」が口にされるようになった。カエルは熱湯に入れると驚いて飛び出すが、常温に入れてゆっくり熱すると、水温の変化に気がつかず、ゆで上がって死んでしまう。徐々に進行する危機や環境の変化に対応することの大切さや難しさのたとえ話の一種だが、この傾向が強いのは、年齢では1957~1966年生まれの50代だ。

吉田さんもその「ゆでガエル世代」に入る。21年前に始めた会社、ジャパン・アジア・コンサルタンツ(JAC)は、これまで山や谷があったものの、総じて順風満帆に来ている。社長の吉田さん自身、仕事を趣味の一環としてやっているふうでもあるが、グループ企業も増えて会社が大所帯になったいま、世の中の急変や経営環境の変化などを見据え、「ゆでガエル世代」がいつまでもトップをやるべきではないと考えている。

若い世代に、新しい時代のコンセプトでやらせる。それは車の運転と同じで、助手席に座っているだけでは運転はわからない。運転席に座り、自分でハンドルを握ってアクセルやブレーキを踏むことによって、はじめて運転はわかる。吉田さんは「このことは経営についても同じでしょう」と言う。

■夢追い人の旅は続く

では、この先どうするか。歴史は好きだが、ありきたりで新鮮味がない。あれこれ思案して出てきたのが「そうだ、料理をやろう。料理を通して文化人になろう」。

吉田さんは炊飯器に触ったこともなければ、食パンにバターをのせてトースターに入れたこともない。それらは母親や寮のおばさん、そして奥さんが全部やってくれた。「うちのよめはん」と呼ぶ奥さんがいないときなど、朝は菓子パンに缶コーヒー。それで十分だった。

「自慢じゃないですけど、ぼくの世代の日本人で、料理というものとは無縁に生きてきた人間のトップ10に入るでしょうね」

そんな無縁男が、千葉の郷里の佐倉に本腰を据えるようになれば、まず料理学校を探す。余生の第一歩は料理教室に通うことから始める。その先に未知の文化が広がっているかもしれないからという。

ガジャマダ大学の学生になりたいと思う一方で、料理に深入りしてその道を極めたいと思う。ロマンチストは欲張りで、その夢は尽きない。

吉田さんの著書「インドネシアルピアの旅」は以下のような一文で終わる。

「次のインドネシアルピアの肖像は誰になるのか? 彼らとまた話がしたいものです。インドネシアは2045年に独立100周年を迎えますが、そのときに続編の『新インドネシアルピアの旅』を書きたいと思います。夢とロマンと希望に満ちた旅はまだまだ続きそうです」

その年には吉田さん、いったい何歳になるのだろうなんて、やぼなことは聞かない。その心意気や、すばらしい。「夢とロマンと希望に満ちた旅」を続けるのは、文脈からするとインドネシア通貨のルピアだが、旅人は還暦を前にした吉田さん自身にちがいない。

人生の旅はこれからが本番になりそうだ。(了)