【インドネシアに生きる】隠居世代で現役バリバリ バティックを着た仕事師(1)

年不相応を地でいく隠居世代の現役バリバリさんの話をしよう。写真は苦手。人相 が悪いからと本人は言うが、なかなかどうして。インドネシアの国民服であるバテ ィックに身を包み、紳士然とした顔立ちとやわらかな物腰で、丁寧語を崩さない。 ただ、その話にはひと癖もふた癖もある。「老人のたわ言です。使えなければ、ど うぞボツにしてください」と言う柴田紹朔さん(85)は、企業アドバイザーとして 広いインドネシアをいまも東奔西走する。「趣味は仕事です」と言い切るが、価値 判断の基準はインドネシアにとってプラスになるかどうかがだ。それはこの地で眠 ると決めた覚悟の裏返しでもあるのだろう。(大住昭)

仕事師という言葉には、職人と詐欺師の両方の意味合いを含むが、柴田さんはもち ろん、前者だ。若い頃は保険会社のやり手の営業マンだったが、つき合いのマージ ャンやゴルフは一切やらず、その代わりに酒を飲んだ。底なしの酒豪で、いまも飲 むときにはウイスキーをダブルで7、8杯。旧友の医者からは「バカ野郎、てめえ の年、考えて飲みやがれ!」と注意される。

■タラップに吹く風
長い人生には時として、奇妙な風が吹く。インドネシアの大地をはじめて踏んだの はいまから41年前。日航機のタラップを降りるとき、一陣の心地よい風が頬に当た る。「あっ、ここならやっていける」と直感した。3年半で帰国するが、もともと は一本気で、社内では変わり者。同調圧力がかかる会社組織にはついぞなじめず、 辞表を出してインドネシアに舞い戻る。

それからはジャカルタが拠点。インドネシア暮らしは通算で35年近くになるが、悠 々自適の日々からはほど遠く、企業アドバイザーとしていまも超多忙だ。平日は夜 中の2時起きでパソコンに向かい、メールでの問い合わせや業務上の翻訳案件など を片づけたあと、朝食をさっさと済ませ、夜明け前の6時には家を出る。乗り込ん だ車での移動距離は1日平均で約150キロになる。

俳句をたしなむ柴田さんがつい最近つくったものに「我が睦月 如月弥生 雨の日 々」がある。筆者はこの一句に、バティックを着た柴田さんのしぐれてゆく後ろ姿 を連想する。

その昔、花森安治という名編集長がいた。戦後の荒廃の中で創刊した雑誌「暮しの 手帖」を長年引っ張ってきた花森は、連載中の「ある日本人の暮し」を担当するカ メラマンに対して、「読者がひと目見て、その人物の人生や生活が浮かび上がるよ うな写真を撮れ」と口酸っぱく注文したそうだ。

花森のこの注文を文章に当てはめるなら、「きれいにまとめようと思うな。それよ りも人間を描け」ということになるか。とっくに老境に入ったいまも「仕事が趣味 」と言い切り、南国の闇夜を破って立ちのぼるご来光を眺めては感動する。永眠の 地はインドネシアと決めている人の核心に、はたして触れることができるかどうか 。はなはだ心もとないが、全体像の一部だけでも描写できるならとつづり始めた。 人間の資質は長年の異境暮らしに影響されても、骨格の大部分はやはり、生まれ育 った日本での青少年期に出来上がるにちがいない。柴田さんの物語もそこから始め よう。

■江戸の火消しの血 祖父も父親も日本橋生まれ。江戸の火消しの血が流れている。父親は船のロープや 土のう袋などに使われるジュート(黄麻)を京橋で売っていたが、その息子は新宿 に近い新大久保で昭和7年(1932年)の元日に生まれた。妹と2人きょうだい。 名前の紹朔(しょうさく)は祖父が命名したらしい。紹には継ぐの意味があり、朔 は朔日(ついたち)生まれからとられたという。ちなみに「日本近代詩の父」と称 される萩原朔太郎は、明治19年11月1日生まれだ。

生家は現在コリアンタウンと呼ばれる地区の中にあった。戦後になって建設された ロッテの新宿工場は家の近く。また歩いて行けるところに鬼王神社がある。この神 社では鬼は春の神様とみなされ、節分の豆まきでは「福はうち、鬼はうち」と唱え られている。

江戸っ子の祖父は、外では飲む打つ買うを実践したが、家では賭け事はご法度だっ た。ただし、酒に関しては孫にもおおらか。家では各自、お膳で食事をする。祖父 のお膳にはいつもおちょこにとっくりが置かれていた。それで孫はお手伝いさんに 「あれと同じものを」と言いつける。お手伝いさんは一計をめぐらし、とっくりに 水を入れるが、孫はそれを見破って、「色がちがうじゃないか」と言って、お手伝 いさんを困らせた。

子供の頃の思い出には、戦時色が濃厚だ。家は中流の暮らし向き。田舎がないため 、ごはんは腹いっぱい食べられない。さゆ同然のおかゆの底には配給米が数粒ある だけ。いつも腹をすかしていた。道ばたの草を抜き、洗って食べたことも数知れず 。「インドネシアは緑が多いので、飢饉(ききん)になっても生きていけますよ 」。

■都立六中から慶応へ

2016年11月、一心不乱で折り鶴に専念する(NNA撮影)

地元の戸山小学校から旧制中学校の都立六中(現在の新宿高校)に進む。 数え切れないほどの犠牲者を出した東京大空襲の記憶は、71年の歳月が過ぎたいま も風化しない。終戦の年の3月9日夕、柴田さんら六中の生徒は多摩川沿いに陣取 り、四中(現在の戸山高校)勢との翌日の軍事教練と称した対戦に備えるため、近 くの小学校の講堂で仮眠していた。

深夜になって、級友が「東京のほうが真っ赤だぞ」と叫ぶ。飛び出してその方向を 見ると、東京の夜空は紅蓮(ぐれん)の炎に包まれていた。 「この大空襲では10万人以上の方が亡くなったとあとで知りました。火の海の中は 地獄図だったんでしょうが、遠くから見ていると、この世の色とは思えないほど、 きれいでした」新大久保の家は空襲で消失する。それで世田谷の東京農大の近くの仮寓(かぐう) に落ち着いていたとき、昭和天皇の生の声による玉音放送をラジオで聞いた。13歳 の中学生ながら意味はわかった。

「わたしも当時は軍国少年でしたが、日本が戦争に負けたというショック以上に、 今夜からゆっくり眠れるという安堵(あんど)感のほうが強かったですね。空襲警 報で毎晩起こされ、焼夷弾が落ちてくる音や爆弾がさく裂する音に神経がやられて いましたから」 新宿御苑に近い六中の周辺は風俗街だった。戦後は「パンパン」と呼ばれた街娼( がいしょう)たちがほうぼうでたむろしていた。 戦後になって、慶応と早稲田に新制の高校が開校する。受験すると2校とも合格。 父親の助言で慶応を選んだ。慶応高校の1期生となり、そのまま慶応大学の経済学 部に進んだ。

■大正海上に就職
戦後はアメリカ文化が洪水のごとく押し寄せ、若かった柴田さんもそれに心を奪わ れる。アメリカに行きたい。留学したいと熱望した。その頃、年上の彼女ができる が、その女性はフルブライト奨学生となって渡米。「あなたも来なさいよ」と手招 きされた。

そうしたいのは山々だったが、残念ながらそれだけの学力がない。諦めざるを得な かった。10年前に亡くなった作家の小田実は、昭和7年生まれで柴田さんと同い年 だ。フルブライト奨学生として渡米し、その後、世界を放浪した体験記の『何でも 見てやろう』がベストセラーになった。

大学4年生になると、就職先を探さなければならない。友だちからは「柴田、お前 は飲み助だから、酒の会社がいいよ」と言われた。酒造メーカーなんかに入れば体 を壊すのは目に見えている。それでお菓子の会社を受けてみることにした。 明治製菓には大勢の応募者がいた。筆記試験ではルソーの「懺悔録」を漢字で書け という問題が出る。また数ページの英文を要約せよと指示される。はじめからやる 気を喪失させるような出題だった。

それでも筆記は合格。役員面接にまで進んだ。「試験はどうだった」と聞かれたの で、「懺悔の懺なんて、当用漢字にはありません。そんな漢字を書かせるなんて、 出題者はどうかしていると思います」と正直に答える。すると健康診断を受けるよ うに指示された。

そこまで行くと、後戻りできなくなる。そう思って辞退した。就職先が決まらない のを心配した叔父は、金融機関を受けるように促した。柴田さんが「お札を数える なんていやだよ」と抵抗すると、「つべこべ言わず、知り合いが保険会社にいるか ら、そこに応募書類を出しておけ」と怒鳴られた。 そうした経緯もあって、大正海上火災保険に入社する。現在の三井住友海上火災保 険の前身だ。

■酒豪の営業マン
のちに社長や会長となった課長は厳しい人だった。「前の晩にいくら酒を飲んでも 、朝はきちっと出社しろ」と厳命される一方で、着ている服が前日と同じだとカミ ナリを落とされた。クツについたわずかな汚れも見逃さない課長のもとで、部下は たっぷり鍛えられ、自然とマナーを体得した。

もともと酒は強かったが、保険会社の営業マンとなってからはそれに磨きがかかる 。競合他社とも保険商品の内容や価格は似たり寄ったりなので、あとは人物を売り 込むしかない。接待に明け暮れ、ひと晩でウイスキー1本はらくに空にしていた。 当時、接待といえば、酒かマージャンか。柴田さんはマージャンができないという より、嫌いだった。ちまちまと雀卓を囲み、パイを見て一喜一憂することに何の楽 しみも見いだせなかった。

「慶応の学生やってて、マージャンができないのか。雀荘に行ったことがないのか 」と上司に聞かれ、「それはあります。ただ友だちがマージャンしている間、後ろ で酒飲みながら本を読んでいました」と返答。「接待マージャンをしなければなら ないというのなら、わたしは酒で勝負します」とつけ加えると、上司はあきれてモ ノが言えない様子だった。

ことほどさようで、融通が利かない部下だったようだ。柴田さんはそのせいか、ゴ ルフもしない。後年になってインドネシアに来てからも、ゴルフ場とは縁がない。

ツルを手に「できたぁ~!」 折り紙は世話になった方に感謝の気持ちを込めて進呈することがよくあるという(NNA撮影)

30歳のとき、かつては夢に見た渡米のチャンスがやってくる。アメリカの保険業者 団体が日本の保険会社の社員向けに講習会を開くとの朗報で、大正海上は社員2人 を派遣することになる。柴田さんはその1人に選ばれた。 カリフォルニア大学のバークレー校でみっちり講習を受けた。それが終わると、宮 仕えの身であるかぎり、そのまま太平洋を逆戻りして帰途につかなければならない 。柴田さんはアメリカの地図とにらめっこしながら、このまま引き揚げるのはもっ たいなく、大陸の反対側の東海岸に行きたくなった。

当時はアメリカで「リスクマネジメント」が提唱されていた頃。ニューヨークのア メリカ経営者協会にそれを勉強したいとの希望を伝えたところ、「歓迎します」と の返事。さりとて会社はどうするか。ええいままよ、とニューヨークに飛んで大学 や関係企業を回ったりした。

約ひと月の無断欠勤。クビにはならなかったが、こってり油を絞られた。上司から は大目玉を食い、先輩や同僚からはねたまれた。

■一等クラスで欧州周遊
帰国してしばらくすると、日本各地で原子力発電所の建設プロジェクトが稼働する 。大正海上はその一つ、福井県の敦賀原発建設の保険を引き受けるが、原発保険は その特殊性から英国の保険組合ロイズと交渉する必要があった。 担当役員のお供としてニューヨークとロンドンを回った。交渉を終えて帰国する段 になったとき、役員から「これからヨーロッパを回る。一緒に来い」と言われる 。「いえ、わたしは帰国しなければならないので、一緒に回るのはロンドンの駐在 員のほうが適任だと思います」と返答する。役割を振られたロンドン側には「柴田 、お前は随行員として来たんだから、最後までお供するのが筋じゃないのか」と切 りかえされた。

それでヨーロッパ各地を回った。当時の会社規定により、ファーストクラスで。こ の件でも社内ではずいぶんとねたまれた。 この手のことはまだ続く。

アメリカ経営者協会から招請状が届いたときは迷った。それには「アメリカの企業 に海外の保険事情を知らせるセミナーを開くが、ついては日本からの講師としてあ なたを指名するので来てほしい」と記されていた。長期の無断欠勤などの前科もあ って、とても上司には口にできなかった。

しかし、本音は行きたくて仕方がない。思いあまって社長に直接訴える。課長や部 長、担当常務などを飛び越してのトップへの直訴は、企業組織の中ではご法度とい うことは重々承知だった。社長は「わかった。行きなさい。ただし、きみはこのこ とで何もしゃべってはいけないよ。上から指示を出すから」と言う。社長の厚意に 甘えて渡米した。

30代後半になって、航空機保険を担当する。会社から認められた保険の引き受け金 額は巨額。大バクチを打つ日々が続いた。

そのうちペルーの首都のリマに赴任する話が持ち上がる。柴田さんは「南米なんか にはめったに行けない。しめたっ!」と思い、正式辞令を心待ちにしていたが、そ のうちに話はぽしゃってしまった。
しばらくして、かわりに浮上したのがインドネシア行きだった。(続く)