【インドネシアに生きる】招き猫が人生の畏友招く ロマン追うコンサルタント(2)

社用で欧米は経験済み。アジアではバングラデシュやスリランカなどには出向いた が、インドネシアははじめてだった。地図上でどこにあるかは知っていても、民族 や文化については皆目知らない。そんなインドネシアの大地に柴田紹朔さん(85) は1976年1月に最初に降り立つ。44歳のときだった。3年半で帰任するが、戻った 職場の空気は居心地のよいものではなかった。50代半ばで長年勤めた会社を辞め、 友人の誘いに乗ってインドネシアに舞い戻る。集成材ビジネスに従事したあと、一 時期は豊田通商アストラ・エクスポート社の社長を務めた。98年に起きたジャカル タ暴動では、「向こう三軒両隣」ということわざが意味するところをかみしめ、以 後はそれを実践している。(大住昭)

柴田さんが勤める大正海上火災保険(現三井住友海上火災保険)は、75年に合弁企 業のインシンド大正社を設立するが、その申請手続きなどで奔走していた前任者が 突然倒れ、1週間後に帰らぬ人となってしまう。表向きの死因は「風土病」とされ たが、東京本社では大問題。組合は「そんなところに駐在員を送り込むとは何事だ 」と大騒ぎした。

■急死した前任者の後釜に
インドネシアの政府当局への申請書類などには前任者の氏名が書き込まれているが 、死者の名前をそのまま使うわけにはいかず、会社としては誰かを早急に送り込む 必要があった。

しかし、急死した前任者の後釜には誰しも進んでなりたくない。そこで航空機保険 の責任者をしていた柴田さんにお鉢が回ってきた。会社としては切羽詰まっての赴 任辞令だったが、柴田さんは「喜んで行きます」の二つ返事だった。 常務には反対される。「きみ、やめろよ。断りなさい。人が死んだようなところへ なんで行くんだ」と言って止められた。「前任者が死んだからといって、わたしが そのあとを追うわけじゃないですから」と返答すると、さんざっぱら説教される。 最後は「家族とよく相談しろ」と言われた。

結婚したのは30歳のとき。4歳年下の奥さんは東京でも有名な写真館一族の娘だっ た。夫婦には子供ができなかったが、口の悪い友人は「柴田が酒を飲み過ぎたから だ」と冗談半分に分析した。

とにかく夜な夜なぐでんぐでん。夫婦と柴田さんの母親の3人暮らしだったが、家 族団らんからはほど遠く、夫は仕事優先で週末もなかった。柴田さんはそんな自分 を「昭和一桁生まれの悲しいサガ」と自覚している。

奥さんの父親は慶応出で、元外相の藤山愛一郎の親友だった。藤山は戦後、政界に 入る前までは実父の藤山雷太が築いた大日本製糖などの社長をしていたが、奥さん の父親はその関係で戦前から終戦まで、大日本製糖が持っていたスラバヤ近郊の農 園経営に従事していた。そうした事情もあり、夫婦間の話は早かった。
「社命でインドネシアに行くことになったよ」
「あら、父が前に住んでいたところだし、よかったわね」
「前任者は急死したんだよ」
「日本よりも人口が多い国なんだから、1人ぐらい亡くなったってどうってことな いわよ」

■毎晩クリスマスイブ
76年1月15日、インドネシアに赴任する。その日は成人の日だったので覚えている。 羽田を飛び立った日航機は、経由地のシンガポールまではほぼ満席。乗り換えたジ ャカルタ行きの機内はガラガラで、スチュワーデスが次から次に酒を勧めてくれる 。しこたま飲んだ。

もともと軍用空港だったジャカルタのハリム空港には夕方到着した。西日がまぶし い中、タラップをゆっくり降りる。そのとき、一陣の風に歓迎された。 「何とも言えないほど心地よい風なんですね。いつかどこかで感じた風のように思 えました。あっ、おれは大丈夫だ、ここならやっていける。そう直感しましたね」 柴田さんが回想する40年以上も前のジャカルタの風景は興味深い。

流しのタクシーに乗ると、足を置く座席の下の鋼板が割れており、道路の地面がそ のまま見える。廃車寸前の超オンボロの、そんな車に乗り合わせたときは、目的地 に着くまで足を上げたままにしなければならなかった。 主要路のスディルマン通りを歩く通行人の多くは素足。化粧をした女性はおしろい らしきものを顔につけていたが、歩いているとそれがポロポロはがれ落ちる。それ でも気にする様子はなかった。

停電は何時間ではなく、何日間。来る日も来る日も電気が使えない日が続いた。 仕事を終えてクバヨラン・バルの家に帰ると、停電で明かりがない。かわりに奥さ んは、石の床にろうそくを何本もともして待っていてくれた。そんな日が続いたあ る晩、奥さんが明るくつぶやいた言葉がいまも耳にこびりついている。 「インドネシアっていいわねえ。毎晩クリスマスイブができるんだから」 当時は日本の食材店もなく、ペットボトルもない。加えて、この停電続き。普通の 神経の持ち主であれば、とっくにギブアップするだろうが、奥さんはちがった。愚 痴はこぼさず、現状をそのまま受け入れることができた。

2016年8月、NNAジャカルタ支局会議室で(NNA撮影)

■仕事帰りはコタへ 合弁企業のインシンド大正社は、ジャカルタ中心部のウィスマ・ヌサンタラビルに 入居していた。日本人は副社長の肩書で来た柴田さんのほかに若手が2人。主な業 務は、インドネシアに進出した日系企業向けに火災、傷害、自動車などの保険商品 を販売することだった。

日系企業は合わせても100社にならず、限られた小さな市場の中でライバルの東京海 上火災と激しくぶつかっていた。 当時は道路渋滞などほとんどなし。人力車のベチャはいまではジャカルタの通りか ら姿を消したが、40年前の道路はベチャだらけ。ホテル・インドネシアの前には噴 水のロータリーがあるが、あの回りをベチャに乗って競争した酔狂な日本人もいた 。

ジャカルタの歓楽街といえばブロックMが筆頭格だが、当時はコタだった。コタに はオランダ統治時代の下水道が残っており、消火栓も完備されていた。そのコタで は気心の知れた商社マンとよく飲み歩いた。 3年の任期はまたたく間に切れる。本音で言えばもっと長居したかったが、日本の 会社規定に背くわけにはいかない。インドネシア人社長にその旨を告げると、「外 資の保険会社は外国人社員の人事も含めてここの財務省の管轄だから、少し待って くれ」と言われ、半年間、引き延ばされた。

■退職して舞い戻る
帰国後は名古屋支店勤務となる。50代半ばになったとき、上司から次の転勤先の希 望を聞かれた。 「緑がいっぱいのインドネシアに3年半いたんで、次は緑のない砂漠の中近東なん かがいいですね」

そう言うと、「バンコク支店長はどうか」と聞かれる。これに「まあ、いいですよ 」と応じたが、その答え方が尊大だったせいか、大阪支店勤務の辞令。窓際に飛ば されてしまった。

これまでのいきさつから、異動した大阪支店でも柴田さんへのねたみは渦巻いてお り、居心地はよくなかった。会社組織であるゆえに、有無を言わさぬ同調圧力もあ った。 いよいよ潮時かと思っていたところ、ジャカルタで知り合った日本人の友人から「 会社を辞めて、こっちに来ないか」と声をかけられる。奥さんにそのことを話すと 、「あなたがそう思うのなら、そうすればいいじゃないの」のひと言。夫婦2人き りなので、退職金と年金があれば食うに困ることはない。腹をくくって辞表を出し た。

友人は脱サラして会社を立ち上げ、ニュージーランドのカーペットを日本に輸入す るかたわら、インドネシアでさまざまなビジネスに手を出していた。その当時、日 本では木材の集成材需要が高まっていたが、友人が親しくしていた2人の華人実業 家から「集成材の工場設備一式を日本で買い付けて、インドネシアでつくってくれ ないか」と依頼される。その任に当たったのが柴田さんで、のちに「経営もやって くれ」と言われた。

熊本に本社があった東南産業から技術援助され、インドネシアでの集成材生産に乗 り出した。製品は大正海上勤務時につき合いのあった三井物産やトヨタなどに販売 する。 そのうち経営陣で仲間割れが始まり、友人は会社から追放されてしまう。柴田さん だけ取り残されたが、たちまち言葉の問題で頭を抱えてしまった。前職では英語で 仕事をしており、インドネシア語は夜のお遊び程度。それがビジネス用語として話 せて当然となる。懸命に覚えるしかなかった。

インドネシア語を正式に学んだことはないが、ここで仕事をする以上、言葉の壁は どうしても乗り越えなければならない。必死に聞き、必死に話しているうちに、い い加減であってもどうにかなるようになった。

そうこうしているうちに、またトラブルが発生。華人の実業家同士で口論になり、 仲たがいしてしまう。集成材工場は立ちゆかなくなり、製品も出荷できない。柴田 さんは日本の客筋に謝罪して回った。

■ジャカルタ暴動と隣組
トヨタの関係者からお呼びがかかったのはそんな折りだった。豊田通商が合弁で新 設する会社に入れという。その会社は地場財閥のアストラとの合弁企業、豊田通商 アストラ・エクスポート社で、アストラのトップからも「インドネシアに残るのな ら、この新会社で働かないか」と言われる。その誘いに乗った。

新会社のトップは豊田通商からの出向者が務めていたが、96年になって64歳の柴田 さんが社長に就任する。
2年後の5月14日にジャカルタで暴動が勃発する。当日は朝からスラバヤに仕事で 出かけていた。ジャカルタから連絡が入り、「暴動が起きたので、こちらには戻ら ず、しばらくスラバヤにいてほしい」と告げられた。
それでも2日後にはジャカルタに戻った。日本の本社からはホテルに避難するよう 指示される。そのことを「ルクン・トゥタンガ」と呼ばれる隣組組織の組長に話す

と、「この地区はわたしが管轄している。暴徒の連中が押し寄せてきても、ここに は絶対に入れない。安心してここにいなさい」と言われた。 組長は続けて「一つだけお願いがある。一緒に夜警をやってくれ」と言うが、柴田 さんは夜回りなどしたことがない。それで「パトロールを終えたみなさんに、これ で食事をしてほしい」とカネを渡す。夜警義務は免除された。

「向こう三軒両隣という言葉が昔からありますよね。隣人を大切にすることは、日 本でもそうですけど、インドネシアのような海外では特に大事なことですね」 暴動が起きた年に社長職から降りた。アストラのトップが用意してくれた転職先は 、日本の接着剤メーカーの光洋産業と合弁を組む地場の同業メーカー、レミンド・ アバディ・ジャヤ。ここで現在もアドバイザーとして勤めている。

アドバイザーはほかにも頼まれれば動く。必要に応じて、いまもスマトラやカリマ ンタンなどに出張している。

2009年4月、レミンド・アバディ・ジャヤの元役員らと(柴田さん提供)

■「インドネシアの土に聞け」
大正海上から始まる長いビジネス人生の中では、試行錯誤を繰り返し、数多くの失 敗もした。いまも思い出すのはインドネシアに赴任したての頃のコピー事件だ。さ さいなことだが、自分の不覚を露呈しただけに鮮明に記憶している。 女性秘書に3枚つづりの資料を3部コピーするように指示したところ、渡されたの は9枚ばらばらの用紙だった。「日本なら、1部ずつホチキスで留められたものが 用意されるのに。こんなこと、少し考えればわかるはずだ」と注意すると、秘書は 猛然と抗議した。

「ミスター柴田、あなたはコピーしてくれと言っただけじゃないですか。それ以外 のことは何も聞いていません!」

そう聞いて怒り心頭。その場では腹の虫がおさまらなかったが、帰宅してから冷静 に考えると、自分の指示の仕方に問題があり、秘書に抗議されるのももっともなこ とだと思うようになった。

日本生まれの「あうん」の呼吸は、異境では通用しない。それがきっかけで、とん でもない勘違いやトラブルを招く恐れがある。柴田さんはコピー事件を一つの教訓 と受け止め、指示はきちっと出すように努めた。

日本の常識や物差しで判断してはならない。このことは、赴任当時にトヨタ自動車 の現法トップで、のちに日本本社の副社長となった神尾秀雄さんに教えられた。大 正海上の現地代表として合弁事業をどう進めるか、迷っていたときだった。

「神尾さんに相談すると、『インドネシアのことは、インドネシアの土に聞け』と 言われました。含蓄がある言葉ですねえ。合弁事業で苦労されてきた神尾さんのア ドバイスだけに、じつに重たかったです。わたしの心にずしんと響きました」 日本の本社との間で、また現地の日本人同士で話し合って、何が解決するのか。一 時しのぎの策はでてきても、それは付け焼き刃にしかすぎず、根本的な解決は先送 りされるだけではないか。インドネシアで問題が起きれば、インドネシアの人と話 し合って解決法を探るべきだ。そのためにも、インドネシアやインドネシア人につ いてもっと勉強するべきだ。

神尾さんは2008年に88歳で亡くなったが、そのアドバイスをいまも順守する柴田さ んは、難題にぶつかったときは、「インドネシアのことはインドネシアの土に聞け 」との教えを常に思い返している。(続く)