【インドネシアに生きる】黄金の日々に突然の悲報 ロマン追うコンサルタント(3)

海外ビジネスで成功するにはどうすればいいか。こう問われると、企業アドバイザ ーの柴田紹朔さん(85)なら、こう答えるにちがいない。その国の人や文化や歴史 についてうんと勉強しなさい、そしてその国を好きになりなさい、と。年不相応を 地で行く柴田さん自身、大変な読書家であり、興味を持つと、のめり込むタイプ。 しかし過去には執着しない。インドネシア関連の数千冊に上る蔵書も、惜しげもな く処分した。いまも仕事で奔走する柴田さんの姿を見て、旧友たちから「大バカ野 郎!」と言われるが、それを??咤(しった)激励と受け止める。末期ガンの奥さん をジャカルタでみとり、男やもめを続けたが、のちにインドネシア人女性と再婚す る。それでも「仕事が趣味」と言う柴田さんの流儀は、一向に変わらない。(大住 昭)

人間の数だけドラマがあるが、人によっては一話完結にならず、続編や続々編がど こまでも続く。これに「もしも」という仮定を加えると、ドラマはもつれにもつれ た糸玉のようになってしまうだろう。柴田さんの長い人生行路の中で、聞き手のこ ちらがあえて「もしも」を想定するなら、あのまま古巣の会社にとどまっていたら という仮定になるだろうか。

中国の言葉に「塞翁(さいおう)が馬」がある。その昔、北方の塞に住む老人は飼 っていた馬に逃げられるが、あとになってほれぼれするほどの駿馬(しゅんめ)を 連れて戻ってきた。息子が喜んでその馬に乗ると、落馬して足を折ってしまう。そ れから戦争が起こり、村の若者の多くは戦死したが、息子は戦場に行くことができ ずに助かったという故事だ。

人生の吉凶や禍福は予測できないことのたとえだが、柴田さんは会社を辞めずにい たらとの仮定には「まちがいなく酒でつぶれてしまい、この年まではとても生きら れなかったでしょう」と言う。

会社を辞めてインドネシアに舞い戻ったからこそ、いまもこうして仕事ができる。 老後は日本で年金暮らしをしていれば、どこからも声がかかることはあるまい。こ こでは日替わりメニューのように仕事上でトラブルが発生するが、どこかでそれを 楽しんでいる柴田さん自身がいる。人間、やはり、万事塞翁が馬なのだろう。

■はじけるほどの好奇心

好奇心は年齢と逆比例するどころか、年をとればとるほど旺盛になる。ここ数年の 関心事は、免疫力や自然治癒力を高め、ピロリ菌の除菌などにも効果があるとされ る熊笹(クマザサ)や、ダイエット効果があるというこんにゃく米など。このほか バイオマス燃料や、太陽光や蛍光灯の光などを吸収し、暗闇で光を徐々に放出する 蓄光塗料にも強い関心を抱いている。

日本企業の技術力とノウハウを活用して、現地の原材料を使い、インドネシアの人 々が喜ぶような物づくりをしたい。はじけるほどの柴田さんの好奇心には、そんな 願望が込められている。

1977年に出版された『新ビジネスマン学・ワンポイント事典』と題する本がある 。16年前に亡くなった元銀行マンの山田智彦さんの著書だ。山田さんはその中で、 東南アジア8カ国を回る途中、ジャカルタで出会ったT海上火災のAさんから聞い た言葉が忘れられず、帰国してからもしきりに思い出されるとつづっている。

「わたしはとにかくインドネシアが好きです。本当に心からこの国が好きになれる こと、それがこの国でビジネスをする第一歩です」

この発言者のAさんは柴田さんだ。柴田さんは40年以上も前の初赴任当時から、こ うした考えの持ち主だったようだ。山田さんはこの話に続けて、海外で成功する秘

訣(ひけつ)はその国や人が好きになるというシンプルさの中にあるのではないか と指摘している。

実際、その国の経済や社会をいくら分析しても、結局は人ごとになるのではないか 。それより何より、肝心なことはその国が好きになることだ、と柴田さんは主張す る。

ビジネスのハウツー本をいくら読んでも、また関連するセミナーにいくら足を運ん でも、その国が好きだとの思いに勝るものはない。外国人を見るインドネシア人の 目も、案外そのへんに注がれているのかもしれない。

■日本人はもっと勉強を

98年5月に起きたジャカルタ暴動とそれを引き金にしたスハルト体制の崩壊。イン ドネシアはその後、民主化に大きく舵(かじ)を切るが、失脚して10年後の2008年 に他界したスハルト大統領については、なにかと独裁やファミリービジネス、汚職 、蓄財など負のイメージがまとわりつく。

柴田さんの見方は少しちがう。政治家だから、もちろん評価できないところもたく さんあるが、スハルトの経済政策の優れた点は仕事を通して肌感覚で感受してきた という。

「インドネシア経済がここまで発展できたのは、スハルトさんのおかげじゃないか と個人的には思っています。落ち着いたら時間をかけて、スハルトさんの経済政策 を調べてみたいですね」

41年前にはじめてインドネシアに来たのは会社の辞令。だからこの国のことについ ては何ひとつ知らなかった。日本流のビジネス手法をそのまま持ち込み、インドネ シア人にそれを押しつけようとしたこともある。そうした自省もあって「これから インドネシアに仕事で来る日本人は、この国のことをもう少し勉強してから来てほ しい」と願っている。

インドネシアには大別して300もの民族が暮らしているが、ここで仕事をするのであ れば、各民族の特性や資質について勉強して理解を深めないと、もめ事や騒動は避 けられないという。

「インドネシア人は何かにつけて言い訳をする」と日本人はよく口にする。柴田さ んによると、それは一つの事実だが、なぜ言い訳をするのかということに思いを巡 らさないと、日本人だけに都合のよい理解になってしまう。柴田さんは「それでは 一方通行で、いつまでたっても問題は解決しません」と言う。

■奥さんに先立たれる

大正海上を辞めてインドネシアに舞い戻るとき、奥さんは柴田さんの母親の世話を する必要から同行しなかった。それで柴田さんは、年の3分の1はインドネシアで 、残りは日本で一緒に暮らすという約束をしたが、仕事が忙しくなると、インドネ シアが5分の4を占めてしまう。奥さんはこのため、時間が取れるとジャカルタに 足を運んでいた。

奥さんは以前、停電になると、石の床にローソクを立てて「クリスマスイブみたい ね」と言いながら逆境を楽しんだ。そんな心の持ち主だったが、8年前にガンで先 立たれてしまった。

亡くなる前、ホスピスに入居することを希望したので、柴田さんは帰国して奥さん の担当医と話す必要があった。ところがその頃になって柴田さん自身が心臓の弁膜 症を患う。ジャカルタの医師からは「飛行機が雲の上まできたら、おそらく命はな いよ」と脅されたが、かまわず帰国。担当医と話したあと、ぶっ倒れて慶応病院に 運ばれ、そこで生体弁を移植する手術を受けた。

奥さんはガンの病魔に冒されながらも、意識はしっかりしていた。 「わたしは最期はインドネシアで迎えたい。父が昔、働いていたし、わたしたちも

暮らしたところだから。あなたと一緒にジャカルタに戻りたい」 「わかったよ、一緒に戻ろう」 奥さんはジャカルタの病院で息を引き取った。火葬にして遺骨は日本の墓に入れた 。

「彼女の正直な気持ちを言えば、ここでわたしと一緒に眠りたかったんだと思いま す」

奥さんを亡くしたあとも、柴田さんのインドネシア暮らしは続く。日本の家をずっ と空き家にしておくわけにはいかず、最終的に手放すことにした。会計事務所をや っている大学時代の友人に財産管理を一任しているが、家を取り壊すことになって その友人から連絡があった。

本や資料が山のようにあるが、それをどうするかとの相談だ。インドネシアを含め た東南アジア関連の書籍はけっこう買い集めた。日本語のほかに、英語やインドネ シア語で書かれた本を合わせると約3,000冊。これに保険関係のものが約2,000冊あ る。

「火事で焼けてしまったと思えばいいんだから、ゴミとして全部捨ててくれ」 そう言うと、友人は「カネと時間をかけて自分で集めたものを、火事で灰になった と思うとは何事だ!」と激怒。「おれに任せろ」と、友人は寄贈先探しのために片 っ端から各方面に電話した。最終的にインドネシアに関係する団体に引き取っても らったらしいが、全部なのか一部なのか、柴田さんは詳細を知らない。「おれの名 前は一切出さないでくれ」と念を押しておいたが、友人はその要望にこたえてくれ たようだ。

2012年10月、銀座の三笠会館で開かれた慶応高校一回生F組のクラス会。柴田さんは2列目の左から2人目で、バティックを着ている(柴田さん提供)

■持つべきは友人

柴田さんに昔の写真はないですかと聞いたところ、返事は「何もないです」。子供 の頃の写真は家が空襲で全焼して灰となり、中高生や大学時代、それに東京でのサ ラリーマン時代の写真は、引っ越しや家の取り壊しなどのどさくさで、すべてどこ かに紛れてしまった。ゴミとして焼却されたかもしれないという。 過去は川下に流れ去った。それはそれでいいのだろう。しかし、写真や本は、いわ ば自分が生きてきた証しでもある。そこには断捨離といった、今風の言葉以上の覚 悟があり、並みの神経の持ち主にはとてもできそうもない。並みの人は何も捨てず 、身の回りにすべてを置いておこうとするが、柴田さんは過去とおさらばすること によって、新しい人生のページを開けようとする。その潔さがある。 それでもついて回り、追いかけてくる過去もある。戦中の都立六中(現新宿高校) や慶応時代の同級生たちだ。

家で晩酌はしないが、外で飲むときは飲む。医者をしている同級生は、柴田さんの そんな酒豪ぶりを知っている。前にメールでこんなやりとりをした。

「柴田、いまも酒飲んでるのか」
「ああ飲んでるよ。ウイスキーをダブルで7~8杯」
「バカ野郎、てめえの年、考えて加減しろ!」
「飲めるから飲んでんだ。何が悪い!」
隠居世代もいい年になったが、それでも馬車馬のごとく働く。いや、相談されたら なんとかしてその問題を解決してあげたい。それで手も足も頭も、フル回転させざ

るを得ない。旧友はそんな柴田さんを見て、「大バカ野郎!」と言う。うん、確か に。自分は大バカ野郎にちがいない。それにしても、遠慮無用のストレートな直言 。「やっぱり、持つべきは友人だなあ」と思っている。

■バティックと風呂敷

服はバティック一筋。ろうけつ染めのシャツはインドネシアの国民服であり、ここ で暮らす以上、国民服のバティックを着るのがエチケットでもあると思っている。 バティックに身を包み、カバン代わりの風呂敷を手に持ち歩く。インドネシアと日 本の伝統が柴田さんの中で絶妙に調和している。

41年前の初赴任時はネクタイに背広だった。伊藤忠商事の支店長にあいさつに行く と、「ここは熱帯だよ。ネクタイなんかで首を絞めて、熱気を体にしまい込んでは 、仕事なんかできん」と言われた。

その支店長はサファリで決めている。「サファリがいいよ」と言われ、見ならうよ うになった。現法トップの日本人が集まる会合などでは、支店長は柴田さんを連れ て席を回り、「この人、大正海上の柴田君です」と言って紹介してくれた。 サファリのあとは、ずっとバティック。いまではネクタイの結び方を忘れるほどに なってしまった。

2016年8月、バティックに風呂敷がよく似合う(NNA撮影)

■インドネシア人と再婚

柴田さんは、永眠の地はインドネシアと決めている。インドネシアの人々に支えら れて自分のいまがあるのだから、ここに眠るのは当然と思っている。日本人墓地の ようなところでなく、インドネシアの多くの人と同様に土葬にして埋めてほしい。 遺書にはそう書き残した。

インドネシアで眠る覚悟なので、日本に落ち着く気持ちはない。親族にそう伝える と、墓のことなども絡んで総スカンを食ってしまう。慶応の同級生に「村八分にな っちゃったよ」と連絡すると、「おれたちがいるから心配するな」との返事。しか し、その当人も先に逝ってしまった。

「やっぱり、この年になると、方々から訃報が舞い込みますね。先に逝く同級生に は心の中で、『三途の川を渡った岸辺で待っててくれ。そこから先には行くなよな 。おれがそちらに着いたら、とりあえずイッパイやろうや。その宴会の準備でもし ててくれ』とつぶやいているんですよ」
奥さんに先立たれて一人残されても、余生は大好きな国インドネシアで送り、ここ で眠る覚悟は変わらない。ただ、生活や仕事をするうえで男やもめのままでは何か と不便。それでインドネシア人女性と再婚した。仏教徒の心は残しながらも、形式 上はイスラム教徒(ムスリム)となり、ムスリムの名前も持つ。永眠するのはムス リムの墓地と決めている。

相手は西ジャワ出身のスンダ人で、バリバリのキャリアウーマンだ。夫婦はお互い 不干渉。夫に問題が起きれば妻は加勢してくれる。80代半ばになっても仕事で奔走 する柴田さんは、ときに「申し訳ないな」と思うときがあるが、自分の仕事の流儀 を変える気持ちはいまのところ、ほとんどない。(続く)