【インドネシアに生きる】理詰めの中に人情の味 中小企業を率いる論客会長(2)

ときにジョークを入れながら、物事を理詰めで話すのは、それだけの経験に裏打ちされているからだろう。会社ではパソコンに触ることはない。はじめは意外に思えても、その理由を聞けば、なるほどなあと深く納得する。そこには名誉博士号を授与された経営哲学以上の豊かな人間味があった。インドネシアに進出した日本の中小企業を率い、ジャカルタの渋滞解決に向けて百年の大計と日本の積極的関与を提唱する白石康信さん ...
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【インドネシアに生きる】末は博士か大臣かを実践 中小企業を率いる論客会長(1)

小柄だが、大きく見える。大言壮語を並べる人ではないが、話題が日本とインドネシアの関係や大企業と中小企業のちがいなどになると、次第に熱を帯び、関西弁が混じったお国言葉の伊予弁になる。三菱電機の駐在員としてインドネシアに来てから35年。技術者と経営者の二足のわらじをはいてきた。この間、酒と一緒に苦汁もいっぱい飲んできたにちがいないが、あらかたは笑い飛ばす。中小企業連合会(SMEJ)の会長、...
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【インドネシアに生きる】東ジャワ暮らしは運命的 元青年協力隊員の家族愛(2)

ネパールの山中から戻った青年海外協力隊員は、木材会社に就職する。16年勤めて転職した現在の会社でも、前職同様に主な勤務地はスラバヤを中心とするインドネシアの東ジャワ州だ。通算で20年になる現地暮らし。本人は「運命的なものを感じる」と言うが、異境での仕事と生活には多くの人々、とりわけ家族の支えがあった。新工場を立ち上げて10年。全力投球でやってきたが、ひと区切りついたところで、...
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【インドネシアに生きる】半生を東ジャワの木材業に 元青年協力隊員の家族愛(1)

若い頃にネパール山中で一生分を歩いたという薩摩隼人。電気のない村々を巡回する青年海外協力隊での2年半は、試練の連続であったにちがいないが、さらりと「楽しかったですよ」のひと言。スラバヤを州都とする東ジャワ州で、半生を木材加工業にささげてきた。還暦を前にしてその先を思案するが、胸中にはつねに家族がいる。ハウテック・インドネシアの社長と技術者という2つの顔を持つ徳丸憲一さん(56)は、...
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【インドネシアに生きる】永眠の地はインドネシア 松山からジャカルタへ(3)

身長184センチで、柔道7段の巨漢。どこにいてもたっぷりな存在感がある。人はふつう、顔で覚えたり覚えられたりするが、この人は大きな体が名刺代わりだ。人ごみの中でも、ひと目ですぐわかる。仕事では長年、労務畑を歩いてきたためか、人を見るまなざしは鋭いが、そこに人情味が漂うのは器の大きさのせいだろう。ジャカルタ在住40年の東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)には、...
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【インドネシアに生きる】柔道指導で現地に深入り 松山からジャカルタへ(2)

ジャカルタの工場勤務で異文化体験をしたあと、古巣の東レ愛媛工場に戻り、ひと仕事終えてから1980年に再びインドネシアに旅立つ。それ以降、所用で一時帰国することはあっても、仕事と生活の場は基本的にジャカルタだ。自分でそう決めたわけではないが、インドネシアでの柔道指導などを通して人の輪が広がるうちに、自然とこの南国の地に深入りしてしまった。東レ・...
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【インドネシアに生きる】邦人社会の重鎮は柔道7段 松山からジャカルタへ(1)

すべては柔道から始まった。柔道がなければインドネシアも無論ない。人の輪は四国の松山仕込みの柔道を通して広がり、社会に出てからは、労務畑の仕事に柔道が生きた。足かけ40年になるインドネシア暮らしの中で、組み手や足技を教えた若者は数知れず。これまでさまざまな役職を引き受けてきたが、その多くは柔道が取り持つ縁。東レ・インドネシア顧問の黒田憲一さん(80)は、...
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【インドネシアに生きる】インドネシアで日本の心に 元商社マンは人情家(3)

インドネシアにかかわって34年。合弁事業などで難題に直面するたび、辛酸をなめながらも相手への配慮を忘れず、もつれた糸は思いやりの心でほぐしてきた。財閥企業シナールマスの専務取締役、小林一則さん(73)はそうした中で、インドネシアで日本の心を見つけたという。5月に最愛の人と永別したが、悲しみはおくびにも出さず、9月初めに開かれたジャカルタ日本祭りではいつも笑顔...
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【インドネシアに生きる】52歳でシナールマスに転職 元商社マンは人情家(2)

インドネシアは1945年の独立後も長年、石油輸出に依存してきたが、70年代後半になって産業構造の転換が図られ、繊維をつくってそれを輸出するようになる。日本の繊維メーカーもこの動きに合わせてこぞって進出するが、ここに商社の出番があり、丸紅もインドネシアでの綿花ビジネスに参入する。米国とメキシコでこの方面での経験を持つ小林一則さん(73)は、1982年にジャカルタ支店...
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【インドネシアに生きる】神戸で見た西部劇が原点 元商社マンは人情家(1)

見てくれはスマートの一語。クールで理知的な感じがするが、この人はどっこい、限りなく情の人だ。商社マンとして30年。インドネシアの大手財閥企業に移ってから20年余り。常に結果が問われるビジネス街道を歩んできたが、この人には効率や勝敗よりも、義理や人情に重きを置く気風がある。それは昔かたぎな日本人の矜持(きょうじ)とも言えようか。本人の回想談によると、...
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【インドネシアに生きる】デザイナーからダイバーへ 高松のお嬢様一代記(3)

インドネシア暮らしが半世紀以上になっても、家で口にするのは日本食オンリー。形の上ではイスラム教徒だが、トンカツを食べて日本酒も大好き。洋服デザイナーのルスタム禮子さん(83)は、インドネシアに同化したようでいて、そうでもない。完全に同化したのはこの国の海だろう。瀬戸内海で育った国体の元水泳選手は、ダイビングで南国の海と一体になったが、74歳で骨折し、いまはマージャンを楽しむ。...
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【インドネシアに生きる】ジャカルタで洋服店開業 高松のお嬢様一代記(2)

インドネシアという異国の情緒を漂わす男性と、いつどこで最初に会ったのかは覚えていない。東京の文化服装学院の助手として青春を満喫していた曽我部禮子さん(83)によると、運命的な出会いといった映画のシーンのようなものはまったくなかった。その男性に押し切られて結婚し、やがて夫の祖国インドネシアに向かう。スカルノ失脚の契機となった9・30事件が起きる1年余り前で、...
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【インドネシアに生きる】スカルノはポーカー友だち 高松のお嬢様一代記(1)

育ちの良さなのだろう、飾るところが少しもない。人間誰しも人生の節目節目で思い悩み、そして決断してきたはず。ところが、この人の回想談はすべてがすべて、「なんとなく、そうなったのよ」。これは無意思の意思とでもいうのだろうか。郷里の高松から東京暮らしを経て、52年前にインドネシアにやって来たルスタム禮子さん(83)。永眠の地をジャカルタにしているのは、持ち前の自然流の行き着くところだろう。...
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